LOGOS-喜びを分かち合い、悲しみをともにするために-

「カキゾエ黄門」漫遊記

本が届いた。
WebSiteで先生が綴られた物を紙媒体にするというのは、実はウォークのお供をさせてもらった最中の出来事を先生がコメントしてくださったので、校正の段階で確認が来たので一足先に知り得て、インターネット本屋で予約をしていたのだ。

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そしてFaceBook等でPRが出され装丁をみて金井真紀さんのおっとりとした優しい絵が、まさに垣添先生のお人柄を現していて来るのを余計に楽しみにしていた。
表紙はウォークの垣添先生。モンベルで統一したコーディネート。グリ-ンのウィンドブレーカーにオレンジのバックパック。色遣いもおしゃれだった。その“おしゃれさん”がそのまま表紙で微笑んでいる。

大雪の福岡を旅立ち神奈川に着いたのは3月も半ば。道中の先達などとんでもない、初めて降りたいずみ野駅から行ったことのない神奈川県立がんセンターへ向かった。
汗っかきな僕は歩き始めてすぐにクールメッシュ ラウンドネックシャツ1枚になった。そんな暖かい日だった。

神奈川東部は谷戸の町だ。等高線の入っていないGoogleMapの地図だけ持って行ったがその道は過酷を極めた(笑)
平坦な道を歩くことなく常にアップダウンが続いていた。
が、平行でない視線、つまりは見上げたり見下ろしたりする視線の先の街々はとても美しかった。
庭にある木々、公園の木々もそうかもしれない。草花や自然を愛でる時、その多くは平行でない視線と言う、非日常の美しさに見とれるからかもしれない。

富士山は多くの日本人が好きな山だが、それは独立峰の稜線の美しさだけではなく、どっしりとした雄大な山を見上げるからかもしれない。
春のスミレやタンポポ、秋のオミナエシやキキョウなど、視線を落としたところに可憐に咲くから愛おしいのかもしれない。

町もふっと路地の先が階段になって降りたところに違う段の家々が並んでいると、おもわずそんな路地の階段を下りて行きたくなる。この先の住宅街はどんななんだろう?そんな衝動に駆られるが、今日は先生のお供であり頼りない道案内なのだ。

それはこの横浜の街でも、また町田の丘陵でも、歩くことで何かが発見できる。そんなワクワクの旅ができる。
さすがに3500kmと言う途方もない距離の中ではそんなお気楽なことは言っていられないかもしれないけれど、ご本を読ませてもらって他の街の魅力もたくさん教えてもらった。
47都道府県、知らない町を歩くのも一興だな、とがん支援だけでないウォークの魅力も教えてくれる一冊だ。

ただ今全国の書店、インターネットで絶賛発売中。ぜひお買い求めてウォークの楽しさ、(出会った)人の優しさを知ってもらいたい。
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  1. 2019/02/08(金) 21:48:21|
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永き旋律

人に会いに行くのなら『台湾』だけれど、夢を見に行くのなら『大陸』かもしれません。夢と言っても一獲千金の夢ではなく、悠久の歴史がまさに自分の足元で起こったのだと目を閉じその時代を思い起こしながら妄想する夢であります。
新婚旅行で30余年前桂林や昆明を旅したものの、その後の中国の米日の追従の発展を見聞きし少し幻滅をしていた中で、ちょうど1年前「空海」と言う映画を見に行きました。映画の内容は大好きな夢枕獏氏の原作と大きく外れ少し残念でしたが、湖北省・襄陽市に367,000ヘクタールの唐の都長安を6年かけて作ったセットはそれでけでも映画代を払える見事なもので、久々に中国と言う国に興味をもったのです。

そして、昨日友人から上海に引っ越すという連絡。上海のそばには「上に天国あり、下に蘇州・杭州あり。」と呼ばれた景勝地、水の都蘇州・杭州がありますが、そこから長江(揚子江)を800km上ったところに漢口(ハンカオ)があります。

さだまさしさんというシンガーソングライターがいます。思い起こしてみれば一番最初に好きになったのが「フレディもしくは三教街」だったかもしれません。
ナヨっとした女々しい詩を書く奴だ、と言う、それはそれで正当な評価もありますが、僕の中では、目をつぶって聞くと情景が本当にわかりやすく聞こえるという叙事詩的歌詞作家で、その最たるものは反戦詩でもあるこの曲です。

家族から聞いた話を詩にすることの多いさだまさし氏ですが、この曲も母親の若き頃の思い出話がもとになったと

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とさだまさしさんの母親は著書にそう記しております。
フレディ、あなたと出会ったのはハンカオ
揚子江沿いの外灘(バンド)であなたは人力車夫を止めた


さだまさしさんの母親が親類を頼って大陸に渡ったのは1942年。前年末12月に真珠湾攻撃をしかけたものの物資に乏しい日本は急速に形勢が逆転。そんな中見た大陸はまだまだ雄大な土地にのびのびとした雰囲気での生活を送っていた、とも書かれていました。
特にアヘン戦争や日清戦争を経て諸列国に国土と税収入を支配され、租界と呼ばれる中国の中の異国の町。それが、英国、、フランス、三教街(ロシア)、ドイツ、日本と自文化の建物を並べたエキゾチックな街並みは今想像しても素敵な場所だったと想像できます。

三教街のケーキ屋を覚えている?
ヘイゼルウッド(ケーキ屋の名前)のお爺さんの
何て深くて蒼い目
いつでもパイプをくゆらせて
アームチェアーで新聞を広げてた


歌には脚色があるでしょうけれど、空襲を気にすることなくまだ居れたのでしょう。
そんなゆったりとした時間が流れる大陸で、さだまさしさんの母親は、日本人租界からロシア人租界である三教街を抜けて英国租界の会社に通っていたそうです。そんな通り道のドイツ人租界でアパートメントの窓から見下ろしていたドイツ人の若者に淡い恋心を抱きますが、1944年空爆がドイツ人租界を襲い彼の居たアパートも含めすべてが無くなっていたそうです。

けれどもそんな夢のすべても
あなたさえも奪ったのは
燃え上がる紅い炎の中を
飛び交う戦闘機


そんなハンカオの街はもうすでに近代国家中華人民共和国の大都市。わずかに残っているのは古い建物をリニューアルさせたいくつかだけだそうです。
でもその中には、さだまさしさんの母親の勤めていたアンリハウス(現勝利飯店)はあるのだそうです。

そのあとは日本は悲惨な末路をたどります。子連れでは日本にとてもじゃないけれど帰れないよ、と言う言葉に親切な農村の方々が子どもを預かってあげよう。命があって落ち着いたらおいでなさい、と情をかけてくれた家庭に残された残留孤児。彼らが生みの親と対面するシーンが1970年代にTVでもよく報じられました。
国家は体制として規律を重んじるために情を捨てます。ですから中国と言う国が好かん国だと思う時もたびたびありますが、それでも素朴に情をかけてくれたたくさんの人の居る国でもあります。

友人の引越しで急に旅心と古い歌を思い出しました。
  1. 2019/01/28(月) 21:03:30|
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本を選ぶ ということ

得てして本を購入する際には、人から勧められた本と、時間つぶしに立ち寄った本屋で衝動買いした本に分かれる。
前段の三島由紀夫氏に関する本は雑誌編集者の町田厚成氏のBlogを読んで興味を示したものであり、後者の東野圭吾氏のは1時間ほど余った時間をカフェでつぶすために小田原駅で購入したものだ。
時同じくして購入した。

件の町田氏のBlogのコメント欄にも記したが、三島由紀夫氏は好き嫌いの前に拒否反応を示して読んでいない作家だ。
多くの作家が自死の最後をしている。が、そこには、物書きの自分の限界を感じてしまった部分や逆にこれだけの文学を認めようとしない社会に対しての批判があるように思う。自らを殺そうとした自殺ではなく世を儚んでの絶望の自死だ。
が、三島由紀夫氏は、日本社会の主義主張に対しての決起を「国軍であるべき」自衛隊さえも真剣に受け止めないことに対しての抗議の割腹自殺だった。文学とは関係ない死を選ぶ。
何故だ?と言うのが

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町田氏がBlogに記したこの本だ。

それによると
1970年三島氏は遺作となる大作を、それまでの過程をすべてぶち壊す最後の数ページを記したのち自衛隊に押し入り、大演説をしたものの自衛隊員はその演説に奮起をすることなく逆に失笑を受け割腹自殺をした。
当時10歳の僕は大ニュースになりながらも、有名な作家が時代錯誤の割腹自殺という表面面のニュースを聞いただけで、その経緯や意義、思想に触れることはなかった。あまりにも奥手で無知であり、なおかつその死の方法に否定をしたからだと思う。

その10年前の60年から日本は安保問題に揺れる。父親は全専売で旗を振っている執行部だったらしく社会党で数少ない総理である片山哲氏の色紙がうちにあるくらいだったが、何しろ僕は無知で奥手なので「あんぽんたん」と言う言葉があり、そんな言葉の響きに似ているだけの僕の生活とは全く関係のない話だった。
そんな世の若者が反米、反戦、反貧困、反差別になびくことに反発し、現人神の天皇のこの国家のために立ち上がれと言いたかったのかもしれない。

町田氏はこんな本も紹介してくれた。

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「(息子の三島由紀夫から)『昨夜一気に書き上げた』と渡された原稿を一読して、私は全身の血が凍る思いがした。
 どういう気持から書いたのかと聞くと、ゾッとする答が返って来た。
 『手が自然に動き出してペンが勝手に紙の上をすべるのだ。止めようにも止まらない。真夜中に部屋の隅々から低いがぶつぶつ言う声が聞える。大勢の声らしい。耳をすますと、2・26事件で死んだ兵隊たちの言葉だということが分った』
 怨霊という言葉は知ってはいたが、現実に、息子に何かが憑いているような気がして、寒気を覚えた」

そして、友人の三輪明宏氏も三島氏の後ろに霊が見え、そのことを三島氏に語るとその特徴を聞き「ああ、それは磯部浅一という将校だ」と答えるとその霊はすっと消えた、と語ったらしい。

キリスト教の信仰は、そういうオカルトじみたことを語ることを好まない。しかしそれはいわゆる「霊感商法」と言う捻じ曲げた宗教まがいの悪徳商法に引っかからないような対策なのかもしれない。げんに後者の存在が分かった瞬間姿が見えなくなった話を読んで僕は聖書の中のエマオへの道のシーンを思い出したし、前者のことも異言を語る者がいるということに通じる何かを感じてしまう。

三島氏の自殺は自らの意志でもあり、もしかしたら自ら以外の意志なのかもしれない。英霊の聲は、2・26事件の将校の霊の話だ。お国のために、現人神のために命を懸けたのに、(戦後)天皇は神ではなく人になってしまった。神になら人生をかけるのは吝かではないが、人になるとは何事だ、と言う霊の言葉が三島氏に憑依したのならあの事件は納得できてしまう。神国日本を再興しようという闇の力がシンクロした人間の肉を借りて湧き上がってきたのかもしれない。

そんなことを漠然と思った時に購入したのが

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「変身」はカフカの代表作だが、もう少し現実的な変身だ。
人間とはどういう生き物なのだろう? 遺伝子操作が出来、細胞培養技術が進む昨今、たぶん僕と言う人物を作るのはもう可能なんだろう。
僕の細胞を培養すれば、身長170cm弱、体重70kgのぼぉつとした顔の男性は作れる。が、たぶんそのTakeもどきはTakeの記憶を持ち合わせていないはずだ。1960年以降の五感を駆使した様々な出来事は脳と言うハードディスクに格納されるが、このハードディスクは酸素と言うエネルギーが送られなければデータを失うからだ。このデータは遺伝子ではない。
ならば、脳移植をしたら、その後のその人はだれか? がテーマの小説は、前記の三島氏の憑依とは別の憑依を感じる。
人間の行動とは何か? 人間は何の力で行動しているのか? 己か?他のパワーか?

本を紹介してくれたので読むということも一瞬の小さな憑依で、どんなに紹介されても読まないという選択肢もあるのに、なぜ僕は読んだのだろう?なぜ…読まされてしまったのだろう?
  1. 2019/01/11(金) 00:54:01|
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ナウリコット村の子どもたちと絵を描く旅

敬愛する金先生がライフワークとしている表記の旅行。
この村はネパールと言う地にある。もちろん名前は知っているが、チョモランマ登山の起点であるとかポカラ宮殿があることくらいしか知らない。
中世の欧米人が未知の国としてジパングを見ていたように僕らもネパールを神秘の国と言う目で見ているのかもしれない。
中国がチベットを支配下に入れ、インドがチベット仏教のダライラマ師を保護しているという21世紀後半の世界の二大強国になろう2国に挟まれた小国。
しかしそんな国が、チベット国や清国、そしてイギリスと戦ったというのはあまり知られていないのかもしれない。知らない歴史に関して現代の側面だけでチベットと中国の関係を見ている自分が情けなくもある。
まぁいい、そんな小国の中にナウリコットと言う小さな村があり、金先生は毎年そこに行かれているのだ。

それだけではない。僕のこのBlogを見た友人が数年前に同行した経緯もある。
関わらざるを得ないとしてでも関われば興味がわく。
2016年12月先生のチャリティーバザール展へ

そこで、この村のことを少しだけ知る。
子どもたちは絵を描くことを知らない。つまり画材も紙もない村。お互い向かい合って目の前のお友達の顔を書いてみようというと大きな紙の片隅に小さな絵を描くという。
その衝撃的な言葉を聞いた瞬間、僕は半世紀前に戻った。僕もそうだった。もったいなくてつかえない子だった。そうしてとっていて黄ばんで使えなくなって捨てざるを得ない子だった。
それが絵を描く喜びを知ったあと、画面いっぱいの大きさになり、タッチが力強くなった。(この写真集に載っている彼女らの絵に)知人の田島征三氏の絵を感じた。

そんなナウリコットの村へは、タイバンコクへ行き、そこからネパールの首都カトマンズへ行く。ここからはヘリなら1時間、くるまならなんと16時間かかるそうだ。
写真を見る。枯れた河川だ。灰色の、しかし大きな石から砂までありとあらゆる大きさの石の中をちょろちょろと水が流れる。広大な水なし川の底を走るようだ。
もちろん春になれば恐ろしいほどの雪解け水がこの川幅いっぱい流れるのだろう。そんな時は命がけでわずかな水の無い部分を走り抜けるのかもしれない。

そしてたどりつくのが標高2500m程度のナウリコット村だ。
登山や山岳ハイキングが好きな人ならよくよくご存じの南アの千畳敷カールと同じ程度の高度だ。チョモランマを中心とした地球上で一番高い山岳地帯の中では麓なのだ。

当初はこのボランティアを断わったと金先生は言う。寒冷の地において、靴もない、洋服も満足にない子どもたちに絵を学ぶ余裕があるのか?
しかし、金先生に依頼をした人は貧しさから抜け出すのは教育だから、と先生を説得して取り組みが始まったと聞く。
2016年12月先生の展覧会で知ったネパールコーヒー。その美味しさとそしてフェアートレードに少しでも関われればと、我が家も横浜でフェアートレードの店舗を運営しているところからコーヒーを購入している。
貧しくてもいいとあきらめてしまったら貧困から脱出はできない。
それは日本でも同じで、野宿を余儀なくしている人でも、脱出しようと努力したり、楽しみを見つけて人生に喜びがあると、そんなに遠くない先に野宿生活から脱出している。
たぶん絵を描きたい、音楽で楽しみたい、本を読みたい、学校に行きたい、そうしていくことが大事なんだろう。そして少しだけ先に経済的な発展をした僕らは上手に手を差し出せればいいな、と思う。

しかし、美しい景色だ。
これはどんなに景気がいい国でも作れない、大自然の美だ。
これだけは死守してほしいと思うのは、僕ら経済が行くところまで行ってしまった人間のエゴだろう。がエゴイストと言われてもなくさないでほしいな。

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そんな写真まで(もちろんベースは子どもたちであり、その生活であるわけだが)が載っている写真集。
僕の友人の皆さんでご希望の方がいましたら、ご連絡を頂ければ購入の仲介いたします。
240ページのカラー写真集で2500円は破格値です。
  1. 2018/12/27(木) 22:33:43|
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炎上弁護士

【序】
「盗み」を分類すると3種類に分かれそうな気がする。
1.その物に財産的価値を感じて資産として盗む場合。いわゆる単なる泥棒・強盗のたぐいだ。
2.その物に商品的価値を感じてコレクションとして盗む場合。痴漢が下着を盗むなどだ。
3.その物自身に価値は感じないが盗み自身を目的とする場合。若者や老人の万引き事件はこの類だろう。

そうした中、童話桃太郎の鬼は、はたして何のために桃太郎アイランドから物を奪ったのだろうか?
少なくとも上記3 ではないと思う。
もう少し考えれば、桃太郎の絵本の最後のシーン。大八車に千両箱や財宝の数々を山のように積み、サルが曳き、キジが嬉しそうに飛ぶ姿をみて、室町時代以降の乱世の時代で千両箱を持てる農民などいなかったこと、コメを年貢として放出した農民がアワとともに食するキビしか食材で提供できなかった貧しさとともに考えればまことに不思議な光景だ。
鬼はなぜ千両箱を持っていたのか? にはいくつかの推測ができる。
A.換金ルートがあった。財宝が欲しかったのだが、桃太郎アイランドにはなかった。そこで強奪搾取したものは、いずこかで換金し、金銀財宝に変えた。当初の盗み2項を彷彿させる。
B.金銀財宝を桃太郎アイランドから持ってきて、お宝として保管していた。持っていることに意味を見出すのならこれも盗み2項だ。
C.同じく桃太郎アイランドから持ってきて換金ルートを通じて替えるまでの間の一時保管として持っていた。これは盗み1項の目的だろう。

僕は鬼ではないので鬼の気持ちがわからないが、Aである必然性は懐疑的だ。とすると、BであれCであれば、アワ・キビしか食べれない寒村になぜ金銀財宝があるのか?が不思議に思われる。
僕らは、提供されたストーリーという情報のみで善悪を判断していたのではないだろうか? あってはいけない財宝がなぜあるか?を解明しないで、鬼のところにわたったからと言って鬼を悪者にするのは正しいか? をいつも冷静に見つめる必要があると思うのだ。

コンピュータゲームのジャンルにRPG(ロールプレィングゲーム)というのがある。いわゆるドラゴンクエストに端を発した今なおゲーム界の王道の一つだ。
最近は通信システムを使って見ず知らずの「仲間」とともに敵に向かう。
ご存知のない方もいらっしゃるでしょうから御説明をさせて頂くと、敵の魔物と戦い勝つと経験値がもらえ、それがたまるとスキルが上がり生命力などが増える、という仕組み。
そのため最初は弱い敵と生命力が低いものどうして戦いあうわけだが、主人公は生命力がどんどん上がっていくのに対し敵の魔物は同じ経験値のまま。そのかわり次から次へと新しいキャラクターの魔物が現れゲーマーを飽きさせない。
そしていくつかのターニングポイントでボスキャラとよばれる強く生命力の高いキャラクターが出てくるわけだ。
一人では勝てないような相手だと、バーチャルの画面の中で同じボスキャラのそばいにいる見ず知らずの「仲間」と会話をし一緒に戦う。「仲間」がどんな人かは老若男女全く分からない。男性が多いRPGの中において優位にゲームを進めたいがために女性になりすまし、「私、初心者で弱いんですぅ~」とちやほやされるのを狙う人が現れても全く分からないのがバーチャルの世界。
「いやぁやばかったね」「手ごわかったですな」などと上っ面な会話を残し別れたらもう二度と会うこともないバーチャルなお付き合い。それでも一時は「仲間」として時を過ごすわけで、「本当の(この世に実在する)」その人は必要ないのだ。
今が良ければそれでいいのだ。

【破】
主人公は、正義の勇者なわけだ。絶対的な正義であり、その前に現れるのは正義に楯突く悪でしかない。
時代背景がどうであろうが関係ない。物語ゆえにそんなものはどうにでもあとづけ解釈がくっつけられる。桃太郎だって、なんでおじいさんとおばあさんが千両箱を持てるような豊かな暮らしをしたかなどどこにも書いてない。ただ鬼は悪者で、正義の使者桃太郎が成敗するだけのことだ。
主人公が鬼を殺戮しそして彼らの持ち物を強奪をするだけだ。しかし、それは正義の御旗の元、正しい殺戮であり正しい強奪なのだ。
RPGの主人公も正義の勇者ゆえに、たとえゲームの最中で死んでもよみがえる。何度でもよみがえり悪のボスキャラと戦うのだ。
戦い戦い、挙句の果てとうとう倒す時が来る。困窮があればあるほど、そのあとの達成感は快感であるのだ。
ゲーマーはまるでこの世の中で俺が正義の勇者であるように錯覚するのだ。

この手の話はゲームだけではない。例えばM.エンデの果てしない物語(ネバーエンディングストーリー)の中においても、いじめられっ子の引きこもりの少年が、物語の中で主人公となり王女を救う冒険の旅をする。
そこには、現実でできないバーチャルの世界にしか活躍の場を得られない若者の存在があり、その逃げ場なのかもしれない。
また、「任侠物」の映画を見終わった人が映画館から出てくる時に皆肩を威喝かせてでてくる、という笑い話もまんざら嘘ではないのだろう。
一例を挙げたが、人は弱い。強くなりたいが努力は嫌なのだ。だからバーチャルな世界に入るとつい同化してしまうのだろう。感情移入すればするほどその気は強くなるのだろう。

【急】
だが、そこで終わらなく現実とバーチャルが交じり合ってしまうのも人間の脳がなせる業なのかもしれない。
現実世界の中で、出来事のバックグランドも調べることもなく、そして自分自身が正義の勇者になってしまうのが、この本の怖さなのかもしれない。

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2チャンネルという匿名性。まさにその中ではバーチャルなのだ。ハンドルという隠れ蓑をきるのは、上記で記した「私、初心者で弱いんですぅ」という女性言葉を僕が使っても誰も僕が還暦近くのオヤヂだと気づかないのと同じだ。
じっとボスキャラを探す。ボスキャラとは何か?
それはクラス内でのいじめと同じ、「出る杭は打たれる」というやつで、弱くても強くても何でもいい。出来が悪い奴でも出来が良すぎるやつでも構わない。モグラたたきのゲームのように最初に飛び出したやつをボスキャラと呼ぶだけだ。誰でもいいのだ、だれでもいいから目立つやつを狙う。
唐澤氏は「正義」で飛び出した。ただ、新しい開拓をインターネット犯罪市場に求めただけだった。が、見事にボスキャラに祭り上げられた。
ボスは強ければ強いほど叩きがいがあるようだ。RPGなら、武器で攻撃をする、魔法を浴びせるなどなどだが、これは現実だ。
武器で攻撃するのはともかく魔法などはない。が、情報をUPするという卑劣なことで精神を追い詰める。

北村年子氏の1982年冬に起こったいわゆる「横浜浮浪者襲撃殺人事件」をテーマにした講演を横浜寿の町で聞いたことがある。多くのホームレスの方もいる中で彼女は、加害者の中学生を責めても解決につながらない。彼らも被害者だと語った。
事実だと思うが、勇気のいる発言だったと思う。仲間をごみのようにした中学生をかばう発言をどういう気持ちで聞いたかはひやひやすることもあったが、本当によく言ってくれたと思っている。

バーチャルの世界でしか居場所がない彼ら。そこは自身がヒーローになれる場所。卑劣なことをしても「匿名」が守ってくれる場所。
ここにしか居場所がないので自分の住みいい場所でいなければならない。逆襲されて居場所を失うわけにはいかない。まぁ万が一ばれそうなときはアカウントを変えればIPアドレスも変わるので、「新」ヒーローとして登場すればいい。逃げ道はある。
そしてその世界においては正義の勇者であるのならボスキャラを倒さなければならないという現実とバーチャルのカオス。

たそれをだ卑劣な奴らだ、というだけでは解決にならないことは唐澤氏も書かれていたし、北村氏のいわんとする加害者だけを非難したところで変わらないというものだ。
とかくストレスの多い社会において、自死者数、精神疾患者数は先進国の中でも1位というありがたくない称号を持ち、それでも働なければ生きられない、家にいれば怠け者という烙印を押す、なんでこんな世知辛いんだと愚痴をこぼすことさえ許されない世の中。社会が楽しくなければバーチャルに逃げたくなるのはわかるし、匿名で攻撃することでストレスを発散したくなるのはわからくはない。でも、それによって被害を被る人がいるのならそれはやはり絶対にしてはいけないことで犯罪だ。

筒井康隆氏が1970年ころに「だばだば杉」という作品を書いた。俺の夢の中だから何をしてもかまわない、と好き勝手なことをしていたが、みなお互いこれは俺の夢の中と言い合い、挙句の果て誰かが夢から覚めるとその存在すらみな消えた、というような内容。
バーチャルだって何でもしていいわけではないのだ。

短絡的に言えば、ネットの中の犯罪は卑劣極まりない。正々堂々という言葉が全く通用しない場所。
しかし、そんな非難だけでは解決にたどり着かないような社会に日本はなってしまったのかもしれない。
  1. 2018/12/20(木) 19:30:08|
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猫女房

「小田高なんだって!!」 神奈川と言っても西のはずれのわが町では有名人などとんと知る由もない40年ほど前。まぁ、垢抜けた仲間内は高校生にもなれば東京まで簡単に遊びに行くが、そんな田舎でもなおさら田舎に閉じこもり、その中でもおくての僕は大学に行って東京の味を知る訳です。
「お前、『首都圏』で生活しているんだろ?街を案内しろや」と地方から出て来た友人と初めて歩いた原宿や青山、そして井之頭公園など、「おれも初めてだ」とも言えずに一夜漬けの東京マップを頼りに歩いたくらいだから、芸能人など出会ったこともなかった訳です。
『花王名人劇場』で、ヤスキヨ、B&Bらとともに人気のあったコント赤信号の1人が地元の名門進学校小田原高校の出身であるというニュースは衝撃でした。この町からそんな有名人が生まれることはない、芸能界なんてわが町と無縁だと思っていましたから・・・。
しかし、方向性の違いでコント赤信号はそれぞれの道を歩むようになり渡辺さんや石井さんと違って小宮さんはTVのブラウン管にはあまり出ることはなくなり、いつしか衝撃の興奮も冷めていくのです。

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続いて小宮さんを思い出すように意識したのは2011年9月。露木順一氏と黒岩祐治氏が神奈川県知事を争った選挙前。露木氏が高校の同級生の小宮孝泰氏を応援弁士として立てれば、横浜では黒岩氏がラサール石井氏を弁士として立てて、久々にコント赤信号がまるで代理戦争の如く火花を散らしたものだからマスコミも面白おかしく掻き立てていましたが、明らかな東高西低の神奈川の解消を露木氏とともに真面目に語ったのを会場で目のあたりにしました。

・・・本を開けると、2011年9月28日・・・つまり僕らが「生」小宮さんを見た前日の奥さんである佳江さんの日記が書かれていて、すでに末期がんの彼女に
『痛みを我慢しすぎないように』
と医者から言われたとある訳です。もちろん小宮さんがそんな状態に置かれていることは、会場の僕らは全く知らずにいたわけです。

そもそも芸能人だから、著名人だからとあまり他人の家族の結婚や離婚などの話を見聞きするのは好きではないので、小宮氏自身が結婚をしていたことも存ぜず、そして若年性乳がんで天に召されたのも存じませんでした。
が、昨日何かの番組でそうした事実があり、サバイバーとケアギバーの間には、思いあう故に言葉にはできないことがあり、お連れ合いの死後、心に秘めたもやもやを書いたノートを見て、居てもたってもいられなかった、と言う小宮氏をみて、氏の書かれた本を購入してみました。

闘病の様子を書いた本かと思ったらまったくそうではなく、ご夫婦の楽しい思い出が中心の本でした。
あれ?
・・・・・・
・・・・
・・
読んでいく内に小宮氏との性格の共通点が見つかりました。たとえば初めて親族の死を経験した時臨終の祖父の枕元に怖くて行けなかったこと。認めたくない物には蓋をして見ないふりをするのは僕もよくあること。
しかし人生年を重ねると多くの方の死に出会ってしまうのです。そうするとあれだけ怖かった、認めたくなかった現実を見られるようになっていく・・・。人は最後は死を通して生きざまを見せ、そして天国での平安を教えてくれるものだと僕も思いますが、小宮氏もご両親や師匠の死を通して徐々に受け止められるようになっていくのです。

が、やはり連れ合いは違う。
しかも彼のご夫婦も我が家と同じ子どものいない2人暮らし。「パパ」「ママ」ではなくずっと生涯自分の選んだお連れ合いのままの生活です。
もし同じ立場になって思い出を書けと言われたら僕は何を書くだろう?と想像すると、きっと僕も闘病記は書けないだろうと思います。あまりにも辛くてつらくて・・・。かくのなら楽しかった思い出と連れ合いが生前大事にしていたことを書くでしょう。

小宮孝泰氏のあまりにも優しい性格と愛おしかったお二人の生活は、やはり二人三脚の闘病記です。薬や西洋療法ではない、メンタルを高めNK細胞を活性化させる『楽しい』闘いの記録だと思います。残された日をどうすれば充実のQOLの高い日に出来るだろう? がこの本の趣旨ではないかと思うのです。
人知れずグリーフサポートを自身で続けたと思います。グリーフからの脱却の厳しさは想像できます。しかし、耐えて、結果、今ようやくこれを書けるようになったのだろうな、とお辛かったろう一時と回復しつつある今後を思います。
  1. 2018/12/17(月) 23:40:03|
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愛と勇気を分けてくれないか

青春が2度あった。一度目は文字通り己が15歳を過ぎたあたりのころ。そしてもう一度は、二つ目の会社でCVS(コンビニ)の店長を任された時代。パートのおばさんからはきっと頼りない店長だと思われながらも、バイトの子たちとまるで同じ年の仲間のように触れ合った時代は青春そのものだったのかもしれない。
うちの店は本部の指示で店内放送にユーセンを使っていた。『町はずれでシュビドゥバー』ユニコーンが歌う大迷惑がヒットしていた頃だった。

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神奈川と言うはたから見れば都会の県にみえる場所も、もちろんピンからキリまで。僕の住む町は、その西のはずれ、そしてそこからローカル線に乗ったところに僕の通った高校があった。
祖母、母、妹の母子家庭の我が家、祖母もそうだが、母親の世間体と「子供」の文字通り自分の操り人形でいないと不安に陥る性格は、幼少時代から従うことが穏便に家で生活ができることと言う今でいう草食男子を地で行く性格ゆえにそんな学校においてももっとも保守的でネガティブな人間だった。

それ故に、高3の時代に購入していた蛍雪時代の付録のとある先輩の手記はインパクトがあった。
タイトルも覚えていないが、広島の高校から東京大学に進学した男性が、自分の高3の時の話を記したものだった。
相撲部を作る。Z会と言う通信教育をやっていた。男女混合で遊びに行く機会が多く道中ではトランプのナポレオンに興じていた。そして、そのメンバー中にあこがれのマドンナがいた。
・・・と、蛍雪時代の言いたい勉強方法はそっちのけでそんな甘酸っぱい青春にあこがれを抱いていた。
それが、歴史の教科書以外の「広島」との出会いだったと思う。

恋愛と言う青春謳歌の大黒柱もそうだが、男女混合でアクティブに活動する姿はまぶしかったしうらやましかった。広島ってそんな華やいだ町なんだ、と思っていた(笑)

そんな小誌を読んでから40年。結婚をし、初老の域に入った。
10年ほど前からRFL(リレーフォーライフ)と言うイヴェントに参加するようになった。がんと言う病が共通項のイヴェントだが、もちろんそれ以外のパーソナルは人それぞれ。
そして今年は広島尾道でのRFLに参加した。主催の実行委員長が遠路からの参加者を食事に連れて行ってくれた。宮崎の方、熊本の方、山口の方、和歌山の方、千葉のシンガーと僕ら。そしてもうお一方の方が、今日ご紹介する本の作者清水さんだ。
あいにく席が一番遠い対角線だったので、何もお話をすることはできなかったのだが、FB(フェイスブック)をなさっているというので友達申請をしたところ快くお引き受けくださった。

氏がFBで「広島本大賞10作品」にノミネートされたと書かれていた・・・ポチッと。

なんだか17歳の時に読んだ小誌の男女混合の行動が「愛郷委員」とダブる。
そして出かける宮島、旧広島球場は、その前の年に行ったRFL広島を思い出す。
原爆ドーム、折り鶴タワー…。 「原爆の日は何月何日ですか?」の問いに答えられない人が増えているという。その中でも忘れてはいけないものを必死に訴え続ける市民。
そうした地道な運動が形骸化しているとしか思えない若者は確かにいるだろう。もっと強い改革を!と思うのは若さなら当然なのかもしれない。資料館は、爆弾の大きさを訴えることに終始し、町が全滅した巨大な爆弾はダメだと訴えるが、そこで熱さで苦しみ、放射線で苦しんだ人は語られる場所が極減した。
有志が日本国を訴え、その訴えを聞いた裁判官が、こうした訴えを出されるということ自身が政治の貧困と嘆いたことは恥部のように隠されている。

様々な政治を抱えながら、しかしやはり青春は恋愛なのだ。そして残念なことにその多くは実らないものなのかもしれない。
しかし人はそうして辛さから立ち上がる力をつけて行くのだろう。
こうした青春の甘酸っぱい話を読むと、ネガティブにノホホンと時間を過ごしたことがまことにもったいなかったが、まぁ今頃そんなことを言っても始まらない。
「愛」と「勇気」、これを自己表現しやすいのはやはり青春だよ。そこで経験値を高めることは結局大人になっても「愛」と「勇気」を使えるのだろう。
頑張れ!次世代のみんな。
  1. 2018/12/04(火) 23:02:47|
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本家本物

一昨日夜中に寒気がしたのが事の始まりで体調不良。約束があったがキャンセルさせてもらい自宅で療養中。
連れ合いにはその件で用事をお願いし行ってもらった。

さて、はたらく細胞と言う漫画をネットで購入した話はBlogにも記したが、残念ながら僕の購入したのは、同漫画のスピンオフのBlackと言うのだった。
つれあいは、上記の予定で町に出かけ本家本元を購入してくれたので、家でのんびり楽しませてもらった。

20181201-01

スピンオフはBlackの名の通り、不摂生な体内の事例が多かったりするが、こちらはよくある症状の話題が多かったりする。
そしてやはりというべき「がん」について2巻に書かれていた。

がんがなくなりますように!と言う祈りは僕は人が細胞からできている以上、そしてその細胞が周囲の環境に適合しようという生命の法則から考えれば永遠に叶わないし、叶う時は環境変化の際に人類の絶滅の時だと思う。
良くも悪くも「生きよう」とすれば最大限の努力を己の体はする。

エジソンは(喩だが)1万回の失敗を揶揄された時に。「失敗ではない。うまくいかない1万通りの方法を発見したのだ」。トライ&エラーの繰り返しの末にエラーではないものを見つける。
体もそうなんだろう。生き延びようと変化をせざるを得ない時にいくつもの失敗を繰り返し、その末に目に適った変化をしたのだ。
単細胞が何億の細胞になり、その細胞が見たり、聞いたり、食べたり、話したり、考えたり、歩いたり、触ったり、つねったり、叩いたり、泣いたり、笑ったり、記憶したり、忘れたり、怒ったり、発汗したり、食べ物を消化したりする過程ではすさまじいトライ&エラーがあったはずだ。
そうやって違った活動をするための新たな細胞になることは、異形の細胞を生むことにもなる。それはがん細胞だ。

擬人化は諸刃の剣だと書いた。心を持たない細胞に思い入れて語るのは正しくないのかもしれない。が、
作者はがん細胞としてなど生まれたくなかったがん細胞に心を寄せて書いたような感がある。人間誰もが生まれる場所と時間は選べないという。こればかりは神のみ知るものだ。
と同時に、細胞の擬人化で言えばだれもががん細胞と言う形でなど生まれたくなかったのだろうな、と思う。
疎まれ続けた一生のがん細胞の最後の言葉は、昔見たジャミラ(ウルトラマン)を髣髴させた。

様々な闘病の方法があるし、闘っている人をリスペクトする気持ちには変わりないが、昨日お亡くなりになった樹木希林さんの闘病がかっこよく見えた。
痛いのや不安が苦手な僕が希林さんのように『がんとの共生』ができるかは正直自信がない。が、がん細胞だって僕の体を思って生まれた細胞の一つなら、寿命まで共生と言う生き方もあるのかもしれない。
  1. 2018/12/01(土) 15:19:30|
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はたらく細胞

擬人化は諸刃の剣だと思うのです。
たとえば宗教では神というものをあまりにも擬人化してしまった故に、同じ目線になりがちで、「祈ったのに神は何もしてくれない」とかいう訳です。神がシナリオを描き、それに従って舞台に立っているのですから、神は人間が祈ろうが祈るまいが、人間の好みだろうが否だろうが、粛々と進み、そこには人間の意見の存在などは皆無かもしれません。
しかし、無の状態から今まで宇宙が経験したこともない、また今後も二度と経験できないだけの大きなパワーを用いて創造できたのは、やはり偶然ではなく必然でしか考えられなく、その巨大な力は小さな力がうごめいて変動している。その変動の力は人の祈りや願望やとりなしなどの力なら祈ることで何か変わると思うのです。
余りに神を人に似すぎて語り続けた結果神の存在は嘘っぽくなったような気がします。

しかし擬人化することで理解を深めることは多分にあります。極端な言い方をすれば、漫画やドラマは、作者の頭の中を擬人化したのにすぎず、その擬人化の共感で内容を把握しています。
犬や猫などペットの動画のキャプチャーに吹き出しをつけて「嬉しいワン」「ありがとニャン」とか書くのは、動物の動きに人間の感情を擬人化させているのでしょう。
もっと言えば、長い間セミが地中に居ながら最後の1週間だけ地上を「謳歌」している、と言うけれど、本当は好きだった土壌の中から最後の一時だけ地獄のような地上に出なかったことを恨めしく鳴いているのかも知れませんが、擬人化と言うか人間の思考で「一週間地上に出れてよかったね」になるのです。

20181128-01

知らない小難しい世界を描くのは擬人化は絶対に効果的です。
体内と言う身近でありながらなかなかよくわからない世界を、とある「新人赤血球」と言う主人公が出会う様々な出来事を書いたのが表記の漫画です。

たばこ、アルコール、性行為、性病、そしてストレス。水虫に脱毛、心筋梗塞と死。
赤血球はブラック企業である人の体を休むことなく働き続けるのです。
先ほどの神と人との話で言えば、赤血球と言う人は人体と言う神に向かって嘆きます。もう働くの辞めちゃうよ、って。
まさに、人が神に祈ったところ(赤血球にしてみれば暴飲暴食を控え節制を促したところ)で変わらないのです。が、先輩赤血球に言われます、お前が四の五言ったところで変わらない、と。
そして白血球や臓器細胞も一生懸命働いている姿を見て、そして最後の死を迎える時に「休める」のではなく「どうにか死からこの体をよみがえらせよう」と努力するのです。

この漫画に主人公赤血球が宿る「人間」の姿は一度も登場しません。どんな人間なのかはわからず、ただ不摂生で次から次へと病という難題を細胞に与えるものであります。が、主人公赤血球は宿してくれた「人間」を愛おしみ懸命に仕事をするのです。
人は人、神は神。神のことを人が考えることなくただ自分のなせることを実直にすること。それこそ信仰の本質なのかと思うのです。

作者はきっとこんな風な宗教的な見方をさせるために書いたのではないと思いますが、はたらく細胞を見てそんな哲学的な気持ちになりました。まぁ僕は変な読み方をしてしまいましたが、実際のこの本は、さまざまな健康や病気と言うのは体内で何がどうなっているのか?が面白くかけています。
義人化された細胞たちは苦悩します。もちろん本当の赤血球や白血球はそんな感情など持たずに粛々と『移動』『作業』をこなすだけです。良くも悪くも擬人化によって歪曲されたり理解しやすくなったりしているのは当初お話ししたとおりのメリット・デメリットがあります。その中から自分が原本以上の想像を膨らませ、また自身の体内のことを考える機会になればいいのではないでしょうか?

TVで病気や健康の取り組みバラエティ番組がお好きな方には特におすすめの本です。また、病院などの待合室においておくといい本かもしれません。
  1. 2018/11/29(木) 20:17:51|
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おとぎ話に出てくるのはおじいさんとおばあさん

RFL広島の帰りに立ち寄ろうとした祖谷峡。

「あなたは山が好きですか?海が好きですか?」と言う思考の問いかけには、僕はガラパゴスや小笠原のような海でもそして宮崎椎葉村、岩手県遠野やこの映画の祖谷峡のような山中の場所でも行き難い場所が好きです、と答えにならない答えを言うと思います。
交流が盛んで異文化の混じりあうようなイスタンブールや敦煌も捨てがたいが、独自の文化を持つ町々の方に触手は伸びます。

20180911-01

この映画は祖谷と言う町の素材をベースに作ったおとぎ話。
だから細かいことを突っついちゃあいけないのです。お爺さんひとりで然程裕福でなく日々の仕事で精一杯なのに赤子をどうして育てられたか、とか、そもそも見ず知らずのお爺さんが引き取れるはずがないことは百も承知です。

落語の演目に『桃太郎』と言うのがあります。眠れないという子どもにおとっつぁんが昔話を聞かせるのだけれど、いちいち理屈でおとっつぁんの方が焦れてしまいます。すると子どもは昔話の解説をするのですが
「昔々」「あるところに」などとして、時代や場所を細かく設定しないのは、いつの時代のどこの子どもにも聞かせられるようにした配慮で、おじいさんが山にいるのは「父親の恩が山よりも高いこと」、おばあさんが川にいるというのは実は海のことであり、「母親の恩が海よりも深いこと」を表現している。本当は父親と母親のことだが、話に愛着を持たせるために老けさせていると語っているうちにおとっつぁんの方が寝てしまう、というもの。
桃太郎だって唐突に鬼ヶ島に行くことを思い立つわけで、故郷の住民が目の前で鬼にやられているシーンはない。しかしそれを設定が悪いとは僕らは言わないのです。

そう思うとこの祖谷と言う日本の原風景の象徴のような山中におじいと美女が住んでいて、その美女が気立てもいいというのは全く持っておとぎ話のそれ。
それが都会との交流で消えていく寂しさと自分たちにも当然の権利として文明を謳歌するという喜びの狭間と言うテーマで、何よりも美しい日本の美を映像化しています。2つの違うものがカオスな状態を経てホモジナイトされるエントロピーの法則に叶おうとする中で、カオスな不安定な時ほど混じりたくもあり反発もするのです。
純粋な主人公が都会で酸いも甘いも知った女性になる。良くも悪くも芋虫と蝶のように全く生き物が変わるように男性と同棲しているシーンになにかガツンと打ちのめされた気分にされたところにこの監督の言いたいことを感じました。

映画には天空の里のかかしたちも友情出演。物語云々よりもきれいな映像をファンタジックに楽しみたい人向けの映画でした。
いつかは本物のかかしを見に行きます(^_^)/
  1. 2018/09/11(火) 20:58:27|
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