LOGOS-喜びを分かち合い、悲しみをともにするために-

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イースター礼拝のお誘い

4月21日はイースター礼拝です。
お誘いのYouTubeをUPしました。
撮影した松田教会はただ今改築中。礼拝堂も壁材などが置いてある中での撮影でしたが、イースター当日まではリフォームは終了していると思います。
どうぞお越しください、お待ちしています。


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  1. 2019/03/12(火) 00:35:45|
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誰でも救われる

2019年2月24日、松田聖契キリスト教会に与えられたみ言葉は、ルカによる福音書 6章27-38節。表記のタイトルの説教を清水靖牧師より受けました。今回も礼拝で説教を聞いた内容を一信徒が思ったこと、話を咀嚼し想像したことを含めて綴ってみます。(なお、新改訳聖書を持ち合わせておりませんので、下記聖書箇所は新共同訳聖書に基づきます。また、公式のメッセージについてはこちらをご覧頂きたいと思います。)
なお、聖書は章節のナンバーも記載いたします。

10:8 では、何と言われているのだろうか。「御言葉はあなたの近くにあり、/あなたの口、あなたの心にある。」これは、わたしたちが宣べ伝えている信仰の言葉なのです。
10:9 口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。
10:10 実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです。
10:11 聖書にも、「主を信じる者は、だれも失望することがない」と書いてあります。
10:12 ユダヤ人とギリシア人の区別はなく、すべての人に同じ主がおられ、御自分を呼び求めるすべての人を豊かにお恵みになるからです。
10:13 「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」のです。


聖書は一般論の書であり、あなたに向けて書かれている。が特に今日の箇所は自分に向けて書かれていると思ってほしい旨から清水牧師は説教を始められました。
今日与えられた御言葉は、「では」から始まります。これは9章13節からの疑義に対してのパウロの回答です。
この箇所は旧約聖書申命記30章14節を引用しています。

30:14 御言葉はあなたのごく近くにあり、あなたの口と心にあるのだから、それを行うことができる。

申命記は近くにあり、口と心にあるから「行うことができる」と書いていますが、パウロは「あなたの口、あなたの心にある。」だけで留めています。それは信仰義認、つまり信じていれば救われる。善行義認、良い行いをした人のみが救われるのではない事を主張するパウロ故に削ったのかもしれません。
パウロは口と心だと言われます。神の愛は公平に、ただ神を賛美する口と心が大事だと言っています。9節のように口での告白と心の信仰が大事だと言うのです。

僕個人は聖餐は(closeやopenではなく)Freeの立場です。それは障碍等で明確な意思を伝えられない人であっても(明確な告白が出来なくても)心の信仰があれば良いと思っています。
では、今日の箇所をどう読むのか?といえば、告白できる人であれば告白すべきだと言う意味に捉えました。
洗礼を受けてもいいと思っていられるのならなぜためらうのか?そうした人にとってはパウロの言うように口での告白と心の信仰は両立すべきでしょう。
まさに私は福音を恥としない(ローマ1:16前)、のです。躊躇すべきではないのです。

様々な理由で口での告白が出来ないのかもしれませんが、あと一歩が踏み出せないのであれば、それは周囲の僕らの祈りの問題なのかもしれません。

今日のような信仰の強さの問題を見聞きするたびに、マタイによる福音書17章20節 イエスは言われた。「信仰が薄いからだ。はっきり言っておく。もし、からし種一粒ほどの信仰があれば、この山に向かって、『ここから、あそこに移れ』と命じても、そのとおりになる。あなたがたにできないことは何もない。」を思い出します。
たとえば戦争の悲惨を目のあたりにして神様に「戦争が無くなりますように」と祈る言葉。嘘ではないけれど、本当にこの祈り〝だけ”で戦争が無くなるとは思っていない自分があります。
教会に来ながら、また何かにつけてキリスト教の考えは好きなんだよね、と言ってくれる友。そんな友が最後の一歩を踏み出せないのは、周囲の仲間へのとりなしの祈りが「祈りで山を動かせない」と言う否定が少しあるからではないでしょうか?山動かせると100%疑わない祈りが出来ていないからではないでしょうか?
ああ、からし種ほどの信仰心のないものだと自分自身であきれ返るのですが、それでもそんな自分を神は見捨てずに 13節「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」のです。と呼び掛けてくれます。
出来ない、物分かりの悪いものだ、と苦笑い(笑)をしながら神はインマヌエル、私と共に歩んでくれるのです。

ある夜、わたしは夢を見た。
わたしは、主とともに、なぎさを歩いていた。
暗い夜空に、これまでのわたしの人生が映し出された。
どの光景にも、砂の上にふたりのあしあとが残されていた。
ひとつはわたしのあしあと、もう一つは主のあしあとであった。
これまでの人生の最後の光景が映し出されたとき、
わたしは、砂の上のあしあとに目を留めた。
そこには一つのあしあとしかなかった。
わたしの人生でいちばんつらく、悲しい時だった。
このことがいつもわたしの心を乱していたので、
わたしはその悩みについて主にお尋ねした。
「主よ。わたしがあなたに従うと決心したとき、
 あなたは、すべての道において、わたしとともに歩み、
 わたしと語り合ってくださると約束されました。
 それなのに、わたしの人生のいちばんつらい時、
 ひとりのあしあとしかなかったのです。
 いちばんあなたを必要としたときに、
 あなたが、なぜ、わたしを捨てられたのか、
 わたしにはわかりません。」
主は、ささやかれた。
「わたしの大切な子よ。
 わたしは、あなたを愛している。あなたを決して捨てたりはしない。
 ましてや、苦しみや試みの時に。
 あしあとがひとつだったとき、
 わたしはあなたを背負って歩いていた。」 ( マーガレット・F・パワーズ )


尻拭いをして帳尻を合わせてくれるのもまた主なのです。

****

さて、今日もお仲間と一緒にお昼を頂きました。サバイバルのような生活になれたのかE姉の作ってくださった食事が豪華。

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その後この改修の設計をしてくれている東海大杉本先生の研究室のKさんが来てくださり、中間のチェック。
プロテスタントは、カトリックの華美で豪華な金の使い方や思想に対してもプロテストしたのだから、ゆめゆめ質素を心がけてほしい旨をお願いしました。

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  1. 2019/03/10(日) 18:05:20|
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死は勝利に飲まれた

2019年2月24日、松田聖契キリスト教会に与えられたみ言葉は、ルカによる福音書 6章27-38節。表記のタイトルの説教を清水靖牧師より受けました。今回も礼拝で説教を聞いた内容を一信徒が思ったこと、話を咀嚼し想像したことを含めて綴ってみます。(なお、新改訳聖書を持ち合わせておりませんので、下記聖書箇所は新共同訳聖書に基づきます。また、公式のメッセージについてはこちらをご覧頂きたいと思います。)
なお、聖書は章節のナンバーも記載いたします。

15:51 わたしはあなたがたに神秘を告げます。わたしたちは皆、眠りにつくわけではありません。わたしたちは皆、今とは異なる状態に変えられます。
15:52 最後のラッパが鳴るとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は復活して朽ちない者とされ、わたしたちは変えられます。
15:53 この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを必ず着ることになります。
15:54 この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを着るとき、次のように書かれている言葉が実現するのです。「死は勝利にのみ込まれた。
15:55 死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか。」
15:56 死のとげは罪であり、罪の力は律法です。
15:57 わたしたちの主イエス・キリストによってわたしたちに勝利を賜る神に、感謝しよう。
15:58 わたしの愛する兄弟たち、こういうわけですから、動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい。主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです。



キリスト教の暦で今日は顕現節の最後です。いよいよ明日からイエスの苦難と復活を祈る四旬節(受難節)に入ります。
顕現節の最後にこの聖書の箇所が選ばれたことはとても感慨深い事です。(顕現:はっきりと姿が現れること。また、物事をはっきりとあらわすこと。)もともとは、イエスがお生まれになったことが世に知られるのが顕現(公現・エピファニー)ですが、キリスト教的にはイエスが甦ったからこそ宗教として確立し、僕らはそこに救いを見ているわけですから、復活のイエスの話をこの日に聞くことは理に叶っているような気もします。

イエスは私たちの罪のため、十字架の死を経て復活した事に、僕らは喜びと希望を持っています。
キリスト教は2極論的な思想です。天国と地獄、最後の審判で山羊と羊に分けられると書かれている通りです。でも、それは最後の時のみではなく、一事が万事なのかもしれないと牧師の話を聞きながら思いました。
つまりは、十字架の死からの甦り、死にすら勝利したことを信じるか信じないか。キリスト教の奥義を知りたいと思っている人には聖書は理解できるし、斜に構えていると見えないものなのかもしれません。
しかしそれは全ての信じると言うことがそういうものだと思います。

なぜ宇宙の初めがあったのか。ビッグバンのエネルギーはどこから来たのか?という問いかけに偶然だと言う人はいまだ少なからずいます。
とある学者が起こる確率を1兆を1億回掛けた、つまり1兆×1兆×・・・・1兆と1億回する程度と言っていますが、それは人間の体を構成している分子が壁をすり抜けるものより低いとも評しています。もちろん、生まれてから死ぬまで競馬の馬券を買い続けてすべて1等をとる方が話の次元が違うほど簡単でしょうし、明日以降の全ての出来事を預言するのも全く以て簡単なことになります。ですからビックバンを偶然と言うのなら、世にあるすべてがもっと起きやすいことばかりなのですべてが偶然です。試験勉強をしてもしなくても同じ点が取れるほどです、だって出る問題は偶然なんです。試験勉強は問題を想定して勉強するものですから偶然は勉強できないはずです。
逆説的に言えば、つまりは宇宙は神の創造物だと思うのです。偶然ではなく意志により生み出されたもの。
その宇宙を作りたもうた神の意志がなんなのか?を古今から誰もが不思議がり、学びだせるはずのない答えに向かってきました。それは今生きとし生ける人、天才と呼ばれる人から僕のようなものまでの20数億人が、その神の意志を聖書から模索しています。
なんでそんなに多くの人が聖書の中に回答を求めているのか?といえばやはりそこに回答がある可能性が高いからではないでしょうか?
はなから否定する人、わからないけれどわからないから聖書に近づかない人、そしてわからないからこそ聖書を読む人、ここに差異はあります。2極論的な違いを感じます。

生とは何か?死とは何か?復活とは何か?そして復活の時の状態について今日の清書には書かれています。 しかし残念ながらこうだよ、と言うことは僕には全く見当がつきません。それは人智を超越しているのでわからなくて当然だと思うのです。パウロが聖霊の力を借りて書いているからそうなのかもしれませんが、僕には想像がつかない話なんです。
しかし確かに思うのは、偶然にこの地球が生まれ、今現在この時に僕が生まれ、友や連れ合いと出会い、笑顔で一日を過ごし、いい一日だと感謝して眠るのは偶然ではなく、そこに意志があるのです。神の意志と自分の意志ある行動の中で僕らは過ごしている、その意思の源の神はインマヌエル、共にいてくれ、愛してくれる神なのです。

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工事は着々と進んでいます。喫茶側の玄関が出来つつあります。

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今日は総会のために教会員でない僕はお昼を共にさせて頂き,O姉に送っていただき帰宅しました。牧師ご夫妻には台所のない不自由な生活を強いてしまっていますが、労苦を微塵にも出さない笑顔に救われます。

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来週は教会ニュースとイースター礼拝に向けてのYouTube作成です。
  1. 2019/03/03(日) 15:39:27|
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あわれみ深い人となる

2019年2月24日、松田聖契キリスト教会に与えられたみ言葉は、ルカによる福音書 6章27-38節。表記のタイトルの説教を清水靖牧師より受けました。今回も礼拝で説教を聞いた内容を一信徒が思ったこと、話を咀嚼し想像したことを含めて綴ってみます。(なお、新改訳聖書を持ち合わせておりませんので、下記聖書箇所は新共同訳聖書に基づきます。また、公式のメッセージについてはこちらをご覧頂きたいと思います。)
なお、聖書は章節のナンバーも記載いたします。

6:27 「しかし、わたしの言葉を聞いているあなたがたに言っておく。敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。
6:28 悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい。
6:29 あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬をも向けなさい。上着を奪い取る者には、下着をも拒んではならない。
6:30 求める者には、だれにでも与えなさい。あなたの持ち物を奪う者から取り返そうとしてはならない。
6:31 人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい。
6:32 自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな恵みがあろうか。罪人でも、愛してくれる人を愛している。
6:33 また、自分によくしてくれる人に善いことをしたところで、どんな恵みがあろうか。罪人でも同じことをしている。
6:34 返してもらうことを当てにして貸したところで、どんな恵みがあろうか。罪人さえ、同じものを返してもらおうとして、罪人に貸すのである。
6:35 しかし、あなたがたは敵を愛しなさい。人に善いことをし、何も当てにしないで貸しなさい。そうすれば、たくさんの報いがあり、いと高き方の子となる。いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深いからである。
6:36 あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい。」

6:37 「人を裁くな。そうすれば、あなたがたも裁かれることがない。人を罪人だと決めるな。そうすれば、あなたがたも罪人だと決められることがない。赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦される。
6:38 与えなさい。そうすれば、あなたがたにも与えられる。押し入れ、揺すり入れ、あふれるほどに量りをよくして、ふところに入れてもらえる。あなたがたは自分の量る秤で量り返されるからである。」



この聖書の箇所を初めて読んだ時、悪人に「手形(お墨付き)」を与えてどうするのだ!?と戸惑ったのを覚えていますし、それはいまでもあまり変わらず、だれかから(広義の意味で)講解を求められた時になんて答えたらいいのか今でもわからない箇所なのです。誰もができないことであったり、オウムのようにしてはならないことを神の御心というのであればそれはカルト宗教です。無条件に自分のものすべてを差し出しなさい、というのを聞かれたら、キリスト教もカルトなのか?と疑心してしまうでしょう。
神様、仰っていることは良くわかります!でも、そう信じているのだからお前の持っているもの全てを俺によこせ、と言う輩が登場したら、はいその通りにします、とは僕は絶対言えません。
それなのに、なんで聖書は…なんでイエスはこのようなことを弟子に話したのでしょうか?

しかも32節で、自分を愛してくれる人を愛したところでと書かれています。例えば教会の仲間に優しくしたところで、そんなもんじゃぁと言われる訳です。
学校でいじめをした人、会社の嫌な上司、にこやかな顔で近づいてペテンにあわした人、些細なことでクレームをつけてくるお隣さんなど、自分が嫌だと思う人、関わりたくないと避ける人、絶対に許せない人に対して「愛しなさい」と言われてわかりました、とは言えないものです。

それが人間のレベルと神のレベルの差だと説かれます。所詮「自分は温厚で人を愛せる聖人だ」と思った所で、神の目には極悪な人と五十歩百歩だと言うのです。
人間には、本当に無条件で人を愛し切れるものなど持ち合わせていないと言われます。
だから神と結びつく必要があると言うのです。

憐み深い、と繰り返して聖書は語られます。清水牧師は、この言葉は日本語にすると上から目線のように見えるかも知れないが、コンパッション(compassion)は共に苦しむと言うことだと語ります。
聖書の中でも有名な「善きサマリア人の喩え」も盗賊に襲われて道端に倒れているユダヤ人を「憐れんで」助けます。「放蕩息子の喩え」も父親からもらった財産をすべて遊び呆けて家畜のえさを食べていた息子を「父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。」とあります。
どちらも相手の気持ちになった時「痛み」を感じ、その「痛み」を見た瞬間に共有して、そういう行動に出たのでしょう。
そこに相手の立派さや強さや正しさなどはないのです。ただ、相手が可哀そうに思い、それを見逃すことができない「痛み」に取りつかれたからこその行為です。

イエスはそんな相手をかわいそうに思うコンパッションを大事にしなさいと語ったのでしょう。
つまりは、悪人が自分勝手にお前のものをすべてよこせと言われたらあげることが大事ではなく、あげなくては自分の心が凹ってしまうからと言う自主的な判断。悪人の言うことを真に受けて従いなさい、ではなく、たとえ相手が悪人であったとしても自分の心が動かされたのならその悪人のために出来ることをしてあげなさい、と言う趣旨。
そんな気持ちの時に、相手の人を知っている知らないに問わず、損得勘定抜きに、思わず差し出してしまう関係を持つことが大切なのではないでしょうか。

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今日の礼拝は11人、そのうち9名の方とお昼を共にし、それから運営会議。東海大学の杉本先生と学生のKさんと一緒に完成後のお話。
日々進んでいく中、台所のない生活を過ごしてくださっている牧師ご夫妻にただただ感謝。そんな訳で食卓も紙皿にラップをまいた上に、カセットコンロで作った食材。

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そして駅からは松田山のカワヅザクラ。

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  1. 2019/02/24(日) 20:24:38|
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リフォーム

すでにこのBlogやFacebookを通じて松田教会が改修工事をしているのはご存じのところと思います。
古い教会ですが、建て替えではなく改修に踏み切った理由はいくつかあります。一つは財政的に厳しい点。
そしてもう一つは、東海大学の杉本教授が「建て替えなんてもったいないこの建物を生かしましょう。」と言って下さったこと。

街づくりのスペシャリストである杉本先生はこの建物がこの町に似合うと踏んでくださった。リフォームすればいい礼拝堂になるし、隣接の牧師館も予てから清水牧師のお考えだった平日の交流スペースとして、杉本先生も賛同をされたことでとんとん拍子で話が進みました。

聖書の十戒の偶像崇拝禁止というのは、見えない神のみを信じることを語っていると思います。しかし(広義でいえば)人は弱く、強いもの権力のあるものになりたがったり、またどうしても礼拝堂が美しいとか豪華だとかにこだわります。中世のカトリック教会は、神への帰依より礼拝堂こ豪華さに心を奪われ、一事が万事ではないですがそうしたことに対してプロテスト(抗議)したのがプロテスタント教会です。
だからプロテスタント教会は礼拝堂は質素なのです。礼拝が出来ればそれで感謝なのです。

しかし視線を変え町の人から「教会」・・・・つまり礼拝堂を見てもらえば、それは「礼拝堂」ではなく教会と捉えます。
いろいろなキリスト教会があり、カトリックの豪華な優美な礼拝堂も、松田教会のような小さな町の街角にある小さな礼拝堂も趣を感じられるのでしょう。それぞれの外見の良さを楽しまれるのでしょう。
杉本先生は、そんな小さな町の角に立つ教会を街行く人が趣を持ってみてくれると感じられたのでしょう。

改築のために大掃除をしていたら昔の雑誌が出て来たと。
それは・・・

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2009年ベネッセムック発刊の久保寺香織さんプロデュースのアパレル雑誌(ISBN978-4-8288-6433-4)

おしゃれの達人と呼ばれた彼女のコーディネートを引き立てる背景に

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が使われたのだそうです。
何気ない街角の教会と言うコンセプトに松田教会がばっちりあったのでしょうね。
教会の持つイメージやグリーンの扉や破風に優しさを感じて使ってくれたのかも知れません。

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松田教会改修プロジェクトSiteより借用

礼拝堂は改修され外見も少し変わるかもしれません。
しかしプロテスタント教会の「教会」とはなんだったのか?思い出してください。華美をプロテストした理由は、神からの恵みと隣人への愛を忘れないためです。
新しくなった教会も、アパレルなどキリスト教とまったく違うコンセプトの人が思わず使いたくなるような優しさを醸し出せるようにまい進したいものです。
  1. 2019/02/11(月) 21:17:04|
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人間をとる漁師

2019年2月10日、松田聖契キリスト教会に与えられたみ言葉は、ルカによる福音書 5章1-11節。表記のタイトルの説教を清水靖牧師より受けました。今回も礼拝で説教を聞いた内容を一信徒が思ったこと、話を咀嚼し想像したことを含めて綴ってみます。(なお、新改訳聖書を持ち合わせておりませんので、下記聖書箇所は新共同訳聖書に基づきます。また、公式のメッセージについてはこちらをご覧頂きたいと思います。)
なお、聖書は章節のナンバーも記載いたします。

5:1 イエスがゲネサレト湖畔に立っておられると、神の言葉を聞こうとして、群衆がその周りに押し寄せて来た。
5:2 イエスは、二そうの舟が岸にあるのを御覧になった。漁師たちは、舟から上がって網を洗っていた。
5:3 そこでイエスは、そのうちの一そうであるシモンの持ち舟に乗り、岸から少し漕ぎ出すようにお頼みになった。そして、腰を下ろして舟から群衆に教え始められた。
5:4 話し終わったとき、シモンに、「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と言われた。
5:5 シモンは、「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と答えた。
5:6 そして、漁師たちがそのとおりにすると、おびただしい魚がかかり、網が破れそうになった。
5:7 そこで、もう一そうの舟にいる仲間に合図して、来て手を貸してくれるように頼んだ。彼らは来て、二そうの舟を魚でいっぱいにしたので、舟は沈みそうになった。
5:8 これを見たシモン・ペトロは、イエスの足もとにひれ伏して、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」と言った。
5:9 とれた魚にシモンも一緒にいた者も皆驚いたからである。
5:10 シモンの仲間、ゼベダイの子のヤコブもヨハネも同様だった。すると、イエスはシモンに言われた。「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」
5:11 そこで、彼らは舟を陸に引き上げ、すべてを捨ててイエスに従った。



おぅ、イエスのアンちゃん、また今日もここで説教かい。頑張れよ。


また今日も来たのかい、まぁお前さんもがんばるよなぁ。いくら神様の言葉だって言ってもみんなのその日の生活でやっとでそんな話聞く暇もないよ。


もう1カ月もしゃべっているな、ほんとお前さんは偉いよ。だんだん人も集まってきたよな。毎日やれば成果が出るってもんだな? えっ?俺っちかい? 俺っちはよぉ、そんな話聞く暇あったら魚の一匹でもとった方がいいや、まぁがんばれよ。


そんなやり取りがもしかしたらイエスとシモンペテロとの間であったかもしれません。
ごく普通の寒村のごく普通の貧しい漁師たちを束ねていた網元の若頭であり、顔見知りのシモンペテロの「職場」のすぐそばでイエスは民衆を相手に説教をしていたのでしょう。

この日も朝早いうちに、イエスは集まった民衆の前に神様の御言葉を語られました。
そして、その説教が終わるとシモンペテロに向かって、舟を貸してもらえないか?と依頼をします。舟を貸してくれと言うのは櫓を漕ぐ自分もともに舟に乗ることを意味し、一晩中漁をしていてクタクタのペテロにしてみれば勘弁してほしいと言う気持ちのなか、日ごろ頑張っている顔見知りのアンちゃんの頼みならと渋々と従ったのでしょう。

イエスは語り終えるとペテロに網を下ろせと言います。冗談じゃないぜ、こちとらプロの漁師だぜ、昨日一晩漁をして獲れないのだから今はこのあたりは漁場じゃないんだよ、しかも今は午前中とれるわけないじゃないか、と思いながら、再度アンちゃんの頼みだからと網を下ろすわけです。
いやぁ、ペテロさんって優しい人なんですよね。一晩中漁をして何も取れない、つまりは自分も仲間の給料を支払えない中、金にもならない頼みごとを引き受けるなんて…。イライラして怒鳴り散らしてもおかしくない中、ペテロはどこの誰かもよく知らないイエスに従います。

まれにみる豊漁にペテロは人間業でないことを知ります。この人は人間ではない…。
それは瞬時に恐れに変わり、だからこそあのような行動をするのでしょう。
「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」

この行動はご利益があった!と言う喜びを超越した恐れの行動です。逆に、ずっとイエスに出会いながら話を聞こうとしなかった、そのイエスは「本物だ」と言うことの恐れです。活きて働く神を蔑にした罪です。
つまりは心の片隅では神に従わなければいけないとは感じていたのです。でもこの世的な事情を優先してしまったことへの懺悔です。

イエスは集まった群衆に神の力を見せたのではなく、神から離れた「罪深い」漁師のペテロに神を知らせました。
パウロの言う「私は罪深いもの」とはどんな罪なのでしょう? それは自分の力で生きていけると言う傲慢な考えです。

イエスのことは知っていました。戯言を言えば嫌な顔一つすらせずに微笑みそして説教をしていました。説教の多くは「行ってそのようにしなさい」と結ぶことが多かったのを聞くともなく聞こえていたのを思い出しました。
知るだけではだめなんです。
懺悔したペテロはイエスの後を従いました。

主よ、わたしたちの主よ、
  ゆるされた喜びに満ち、
  いま、出かけます。
  あなたの労苦に 加わるために。
 讃美歌21 94番の1節

****

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大工さんの仕事は早いです。わずか2週間でここまで進んだのか!と驚くべきスピードで、カフェになる部分の床は剥がされ、礼拝堂と同じ高さにあわせられて次週には一部コンクリを打ちます。
逆に言えば、牧師を始め教会員がそのペースについて行けず、今週は礼拝堂に移動され置かれた荷物の中の礼拝でした。
しかし、教会員はニコニコ顔。それは先週も記しましたが、教会とは礼拝堂ではなく、信仰だからです。
それでも久しぶりの2組の方はちょっと驚いていました(笑)
でも改修中の礼拝堂で礼拝を守ることはそうたびたびあることではありません。床板がないので外気がもろに入ってきていつも以上に寒い礼拝堂でしたが、神ともにいることを感じ感謝しかありません。

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狭くて雑多になっいる台所でお昼を作ってくれたE姉妹に感謝。
  1. 2019/02/10(日) 18:01:09|
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信仰と希望と愛

2019年2月3日、松田聖契キリスト教会に与えられたみ言葉は、コリントの信徒への手紙Ⅰ 12章27-13章13節。表記のタイトルの説教を清水靖牧師より受けました。今回も礼拝で説教を聞いた内容を一信徒が思ったこと、話を咀嚼し想像したことを含めて綴ってみます。(なお、新改訳聖書を持ち合わせておりませんので、下記聖書箇所は新共同訳聖書に基づきます。また、公式のメッセージについてはこちらをご覧頂きたいと思います。)
なお、聖書は章節のナンバーも記載いたします。

12:27 あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。
12:28 神は、教会の中にいろいろな人をお立てになりました。第一に使徒、第二に預言者、第三に教師、次に奇跡を行う者、その次に病気をいやす賜物を持つ者、援助する者、管理する者、異言を語る者などです。
12:29 皆が使徒であろうか。皆が預言者であろうか。皆が教師であろうか。皆が奇跡を行う者であろうか。
12:30 皆が病気をいやす賜物を持っているだろうか。皆が異言を語るだろうか。皆がそれを解釈するだろうか。
12:31 あなたがたは、もっと大きな賜物を受けるよう熱心に努めなさい。

そこで、わたしはあなたがたに最高の道を教えます。
13:1 たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。
13:2 たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。
13:3 全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない。
13:4 愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。
13:5 礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。
13:6 不義を喜ばず、真実を喜ぶ。
13:7 すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。
13:8 愛は決して滅びない。預言は廃れ、異言はやみ、知識は廃れよう、
13:9 わたしたちの知識は一部分、預言も一部分だから。
13:10 完全なものが来たときには、部分的なものは廃れよう。
13:11 幼子だったとき、わたしは幼子のように話し、幼子のように思い、幼子のように考えていた。成人した今、幼子のことを棄てた。
13:12 わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。
13:13 それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。



今日の箇所は何の感想もいらないほど読めばわかる箇所です。
ひとりひとり個性のある人間として生まれ生きている、その集合体が社会と言う場所であって、その社会の中でどう生きるべきかを明解にパウロは語っています。

昔はじめてこの聖書の箇所を読んだとき違和感がありました。宗教書であるべく聖書が信仰よりも愛を優先して書くことなどあるのだろうか? と。しかし、教会に通い続けている今はまさに一番大事なのは信仰ではなく愛だと言いきれます。

『教会』と言う言葉に多くの方は、「礼拝堂」を思い浮かべるかもしれません。しかし、当然のことながら礼拝堂をもたない教会も存在します。
例えば2011年の東北の震災ではいくつもの教会が礼拝堂を失いました。が、教会は無くなってはいません。
日曜になれば跡地に信徒の方々が集まり、ともに賛美し、神様に祈りをささげます。
「礼拝堂」はモニュメントの一つであり、シンボルでありますが、なくても、そこに「愛」があれば『教会』は成立します。つまり教会とは形を持たない概念でいいはずなのです。しかし、それでは不安に陥る、それゆえに集まれるシンボリックな礼拝堂を建て続けてきたのでしょう。
愛とは何か? と言われれば、その答えは「マタイ22:34~」や「マルコ12:28~」や「ルカ10:25~」に書かれている箇所や、善きサマリア人の喩えなどにそのヒントが載っていると思います。
二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。(マタイ19:20)と書かれている通り礼拝堂ではなく、神を賛美する群れの中にイエスはいます。もっと言えば無償の愛をご自分の命すらも見ず知らずの人の罪のためにも惜しげもなく差し出したイエスのみあとを歩んでいくと言う群れの真ん中にイエスは立って導いてくれる、それがキリスト教会なのでしょう。
だから礼拝堂は無償の愛の発信地だと思います。13:13~の愛あればの箇所をかみしめて今週も歩みたいものです。

****

いよいよ松田教会は改修作業が始まりました。礼拝堂の床はコンパネの仮張りの上で壁の腰板は剥がされ断熱材がむき出しのまま、そして明日以降の資材が所狭しと置かれています。
が、僕以外の集まった人々も、神様がこの改修を御心として進められる喜びにみな笑顔です。

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そして昼食は、金曜日に松田町役場に婚姻届を出した直後に隣接の当教会に足を運ばれた若きお二人と食事を共にできました。これも感謝。

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  1. 2019/02/03(日) 23:23:30|
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真実な人間性の回復

2019年1月27日、松田聖契キリスト教会に与えられたみ言葉は、旧約イザヤ書 61章1-6節。表記のタイトルの説教を清水靖牧師より受けました。今回も礼拝で説教を聞いた内容を一信徒が思ったこと、話を咀嚼し想像したことを含めて綴ってみます。(なお、新改訳聖書を持ち合わせておりませんので、下記聖書箇所は新共同訳聖書に基づきます。また、公式のメッセージについてはこちらをご覧頂きたいと思います。)
なお、聖書は章節のナンバーも記載いたします。

61:1 主はわたしに油を注ぎ/主なる神の霊がわたしをとらえた。わたしを遣わして/貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。打ち砕かれた心を包み/捕らわれ人には自由を/つながれている人には解放を告知させるために。
61:2 主が恵みをお与えになる年/わたしたちの神が報復される日を告知して/嘆いている人々を慰め
61:3 シオンのゆえに嘆いている人々に/灰に代えて冠をかぶらせ/嘆きに代えて喜びの香油を/暗い心に代えて賛美の衣をまとわせるために。彼らは主が輝きを現すために植えられた/正義の樫の木と呼ばれる。
61:4 彼らはとこしえの廃虚を建て直し/古い荒廃の跡を興す。廃虚の町々、代々の荒廃の跡を新しくする。
61:5 他国の人々が立ってあなたたちのために羊を飼い/異邦の人々があなたたちの畑を耕し/ぶどう畑の手入れをする。
61:6 あなたたちは主の祭司と呼ばれ/わたしたちの神に仕える者とされ/国々の富を享受し/彼らの栄光を自分のものとする。


松田教会では、前奏楽・賛美・主の祈り・交読・祈祷・賛美・聖書朗読・説教と礼拝は続きます。
説教の前の聖書朗読が上記の箇所ですが、その前の交読はルカによる福音書4章14―21節、下記の箇所です。

4:14 イエスは“霊”の力に満ちてガリラヤに帰られた。その評判が周りの地方一帯に広まった。
4:15 イエスは諸会堂で教え、皆から尊敬を受けられた。
4:16 イエスはお育ちになったナザレに来て、いつものとおり安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとしてお立ちになった。
4:17 預言者イザヤの巻物が渡され、お開きになると、次のように書いてある個所が目に留まった。
4:18 「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、/主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、/捕らわれている人に解放を、/目の見えない人に視力の回復を告げ、/圧迫されている人を自由にし、
4:19 主の恵みの年を告げるためである。」
4:20 イエスは巻物を巻き、係の者に返して席に座られた。会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれていた。
4:21 そこでイエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められた。


ちょうどイエスに渡された箇所が今日松田教会に与えられた御言葉の箇所のお話です。イザヤ書の後半はいつだれによって書かれたかは不明ですが、少なくともイエスが生まれる数百年前には書かれており、イエスの時代には書面として神殿に保管されていました。
それを慣例に従ってイエスが読み上げ席に座り、民衆はイエスの言葉を待った、と書かれているわけです。
イエスの行動は、まさに松田教会で言う司会者と説教者を一緒になされたようなものです。
僕らもこの日、司会者のT姉が読み上げた聖書の箇所を聞き、「説教、清水牧師より、真実な人間性の回復です」と言う言葉とともに牧師からのメッセージを聞き漏らさないようにと壇上に上がる牧師に注視しました。
2000年経った今も同じようにしたわけです。

その時イエスは「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と語られました。
この聖書の言葉と言うイザヤ書61章、ヨベルの年の話を今日はお聞きしたわけです。
ヨベルの年と言う言葉は聞きなれない言葉かもしれませんが・・・、
ヨベルの年とは、7年ごとに土地を休ませる安息年が7回巡った次の年、つまり第50年目の年を指します。
安息年が7回めぐり、49年目となると第7月の10日(つまり、贖罪の日)に角笛を鳴り響かせ、ヨベルの年の到来を告げます。ヨベルとは、「雄羊の角」(ヨシュア記6:4)という意味です。と物の本に記されていますが、この年が来ると全ての負債が帳消しにされます。
それは捕囚と言う屈辱と困窮、そして重税と貧困に苦しむユダヤの民にとっては喜びだったに違いありません。重荷だったものが消えてなくなるのですから・・・。
失業や悪質労働条件のもと得れる賃金では生活できない人がサラ金からお金を借りてにっちもさっちもいかなくなってあとは死を待つしかないのか…と言った時に、サラ金各社が返済を免除しようと言ったらそれは喜ぶでしょう。

しかし元々の意味はそうした負債は人と人との契約であり、神はあなたに何の負い目も与えていないんだよ、と言う意味です。「立って半畳、寝て一畳」裸一貫で生まれてきたのだから生後所有したものだって一時的に神から借りているもの、神に返しましょうという、神に立ち返れ、と言う原点回帰を忘れないようにするための社会ルールだったのだと思います。

しかし、借金が無くなったと喜んでも、きっと社会やその人を取り巻く環境が変わらなければまた借金をしなくてはならないでしょう。
貧しい人の上に福音が、と言っても、また元の生活になったのであれば元の木阿弥です。

イエスはなにゆえに「大丈夫だ」と語るのでしょう?
自分に見合った生活で満足する術を覚えればどうでしょうか?
隣の芝生は青い、と言う喩えがありますが、だからどうした?私は自分の家の芝生が大好き、なら気にならないわけです。
心の解放、神への帰依。インマヌエル、いつもあなたと一緒にいますと言う神の言葉だけを糧に今週も生きていきたいです。
そう、古くからの言葉に『襤褸を着てても心は錦』とあります。まず心が満足できることが大切だと思います。
心の満足とはなんなのでしょう?一番大事な1つだけで満足することです。

****

会堂の中の礼拝堂以外の部分を近隣の方々の集会を兼ねたカフェにしてのリフォーム計画はいよいよ実工事直前まで迫ってまいりました。
M工務店の棟梁と契約書を交わし、工事が始まります。

写真は、松田駅からの来る道すがらの礼拝堂と今日のお昼、清水牧師お手製のカレーです。

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  1. 2019/01/27(日) 19:44:17|
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カナの婚礼

2019年1月20日、松田聖契キリスト教会に与えられたみ言葉は、ヨハネによる福音書 2章1-11節。表記のタイトルの説教を清水靖牧師より受けました。今回も礼拝で説教を聞いた内容を一信徒が思ったこと、話を咀嚼し想像したことを含めて綴ってみます。(なお、新改訳聖書を持ち合わせておりませんので、下記聖書箇所は新共同訳聖書に基づきます。また、公式のメッセージについてはこちらをご覧頂きたいと思います。)
なお、聖書は章節のナンバーも記載いたします。

2:1 三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があって、イエスの母がそこにいた。
2:2 イエスも、その弟子たちも婚礼に招かれた。
2:3 ぶどう酒が足りなくなったので、母がイエスに、「ぶどう酒がなくなりました」と言った。
2:4 イエスは母に言われた。「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。」
2:5 しかし、母は召し使いたちに、「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」と言った。
2:6 そこには、ユダヤ人が清めに用いる石の水がめが六つ置いてあった。いずれも二ないし三メトレテス入りのものである。
2:7 イエスが、「水がめに水をいっぱい入れなさい」と言われると、召し使いたちは、かめの縁まで水を満たした。
2:8 イエスは、「さあ、それをくんで宴会の世話役のところへ持って行きなさい」と言われた。召し使いたちは運んで行った。
2:9 世話役はぶどう酒に変わった水の味見をした。このぶどう酒がどこから来たのか、水をくんだ召し使いたちは知っていたが、世話役は知らなかったので、花婿を呼んで、
2:10 言った。「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、酔いがまわったころに劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました。」
2:11 イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた。


有名なカナの結婚式の場面。イエスが初めて奇跡をおこなった場所。
清水牧師はこの箇所の存在意義について考えるところから今日の説教を始められました。
福音書に記されているイエスの歩みの多くは、事の善悪を説く場合が多いです。時には律法について宗教者たちと闘うこともあったり、癒しを与えたり、結果ジャッジを得られることが多くあります。
しかしこのカナの結婚式では、表面面だけ見れば、言い争う相手もいなければ、ジャッジングを問う場面もありません。
意見の食い違いはなく、ただ、お祝いの場面で、皆がハッピーになれました、と言うお話です。今日は礼拝の中で「祈り」の当番でしたので、今日の聖書の御言葉を通じての祈りをしましたが、初めての奇跡が難しい話ではなくただ皆の幸せな笑顔になる奇跡だったことに僕は感銘すら覚えた、できればこの1週間も自分も隣人も笑顔で居れるように、イエスの奇跡のように笑顔を生みだせるように、と祈ったのですが、イエスの奇跡はそうした社会になることだったのではないかと思います。

しかし不思議な箇所です。誰かの結婚式に招かれた話であれば、新郎や新婦の名前、またイエスや母マリアとの関係などから書き始めるでしょうけれど、一切そこには及言していません。どれだけの関係者なのかも読者に伝えないまま書かれた結婚式とイエスの初めての奇跡。
福音書の著者が書かなかったのは、初めての奇跡を見ての驚きが余りにも大きかったからかもしれません。それに比べれば、誰の結婚式であろうがイエスとの関係がどうであろうが、もうそんなこと全てよくなったのではないでしょうか?

もちろん細かい内容にも踏み込まれました。
6節にはユダヤ人が清めに用いると言う文言があります。現在の社会においてでも、清めること、穢れることは、差別を助長するものでもありますが、ユダヤの世もそうでした。イエスはこのあと公生涯を送る時、穢れをもっていると言われた羊飼いや取税人、医者や血の病を患っている人など差別なく接していたので、宗教的指導者からは疎まれた存在でした。
たぶんこのかめは聖別をするための道具であったのでしょう。特別な人のみ触ることが許された水を結婚式に参列した誰もが喜びと祝いの笑顔の道具に変えたのです。
ここにキリスト教が「愛の宗教」と言われる所以が発生しました。

そして母マリアはいいます。この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください
この言葉に神の言葉に従順でいる大切さが語られています。

また、「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、酔いがまわったころに劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました。と言う言葉にごまかしのない真実の人であることが語られています。

当初今日の箇所はお祝いの席に集った皆が幸せになっただけ、と語りましたが、よく考えれば、僕らはこの世に生きとし生けるものすべてが幸福になることこそが、至上の喜びではないでしょうか。
愛と神の導きと真実の生き方、これこそが一番大事なこととイエスは最初の奇跡の中で身をもってそっと教えてくれたのだと思います。

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さて、今日は午後から炊き出しの準備があり、急いで日本キリスト教団小田原教会に行かなければいけなかったので昼食は残念ながら食べられませんでした。
しかし、清水牧師渾身の大作、リノベーションをした新会堂の3D模型が飾ってあったのでそれをぱちり。
イースターはこの会堂でお祝いできたらいいな。
  1. 2019/01/20(日) 18:24:47|
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イエスの洗礼

2019年1月13日、松田聖契キリスト教会に与えられたみ言葉は、ルカによる福音書 3章15-17節並びに3章21-22節。表記のタイトルの説教を清水靖牧師より受けました。今回も礼拝で説教を聞いた内容を一信徒が思ったこと、話を咀嚼し想像したことを含めて綴ってみます。(なお、新改訳聖書を持ち合わせておりませんので、下記聖書箇所は新共同訳聖書に基づきます。また、公式のメッセージについてはこちらをご覧頂きたいと思います。)
なお、聖書は章節のナンバーも記載いたします。

3:15 民衆はメシアを待ち望んでいて、ヨハネについて、もしかしたら彼がメシアではないかと、皆心の中で考えていた。
3:16 そこで、ヨハネは皆に向かって言った。「わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。
3:17 そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。」

3:21 民衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受けて祈っておられると、天が開け、
3:22 聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た。すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。



AKB(と言うアイドルグループ)が一世を風靡し始めたころから『神』と言う言葉を本来の神以外にも使う若者用語として流行っています。
大勢が舞台に上がる彼女らが舞台上の真ん中で歌うためには「選挙」と言うシステムでたくさん投票を受けなければならず、そんなところからセンターで歌える彼女らを『神』と呼ぶようになったわけです。そこから発生して特別な能力、人に秀でた能力を持つ人、人を驚かせる大事件の主犯などの事を『神』と呼ぶ言い方がはやっています。

さて、今日の聖書の箇所は、困窮のユダヤの民が虐げられた毎日の中でいつかは神の御許から救い主がこの世にやってきて自分たちを救ってくれると何千年も信じている最中のお話。
何千年も、と言うのは、もう伝説化になっているほどの長い時間ですが、彼らは頑なに「いつかは」を信じていたわけです。
「どんなお方なのだろう?」その風貌も、「どこに現れるのだろうか?」その場所すらわからないですが、いつかと言う希望だけは持っていたわけです。
そんな時にヨハネと言う若者がそのメシアだという噂が立ち、彼から救いのためのバブテスマを受けようと長蛇の列ができた、と言うのが今日の聖書の箇所。

その列にイエスも並ばれるのです。本物のメシアが・・・・、民衆からメシアと言われたものの「イエスの履物のひもを解く値打もない」、とヨハネが言っているそのイエスが!!、です。
そもそもバブテスマとは罪ある人が、悔い改め神に従って生きるための儀式です。ですから神の御許から来て罪を犯していないイエスは受ける必要もないのです。

ですから、共観福音書マタイによれば
3:13 そのとき、イエスが、ガリラヤからヨルダン川のヨハネのところへ来られた。彼から洗礼を受けるためである。
3:14 ところが、ヨハネは、それを思いとどまらせようとして言った。「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか。」
3:15 しかし、イエスはお答えになった。「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」そこで、ヨハネはイエスの言われるとおりにした。


と、ヨハネはイエスの洗礼を一度は否定するものの、イエスの願いで洗礼を授ける訳です。
しかも普通の人と同じように列に並んでです。
これはどういう意味なんでしょうか?
清水牧師は大阪釜ヶ崎の本田哲郎神父の著書から話を進めます。
小田原や寿でもやっている越冬炊き出し。そこでは調理した食事を配食する時に長い列ができます。
多くの野宿者は、例えば飲み終わったアルミ缶を集めて日銭をため1日1食の弁当を食べたりしていますが、それはアルミ缶を業者に持って行き、換金してもらってこそお金になる訳です。アルミ缶では食べられません。
しかし、そうした業者も年末年始は休みを取ります。必然、彼らは換金の手段を失い、約1週間食事がとれなくなります。
寒い冬満足に食べられなければ「死」を迎えます、それを防止するのが越冬炊き出しなんです。まさに「越冬」の闘いなんです。そんな炊き出しの行列の後ろを指さし、「見てみぃ、イエスはんが一番後ろに並んでおられる」

イエスはなぜバブテスマを受けるのか? は、みなと同じ目線での行動であるのです。ですから神の御子とはいえ、偉そうに横から割り込んだり、誰の目にもイエスとわかるような服を着て、ではないのです。
普通に普通に列に並び、同じように時間を使って自分の番を待つのです。

AKBに端を発した『神』とは、2年連続得票がトップであるとか、YouTubeの動画で誰もが驚くようなすばらしい技を見せたりとかする人をリスペクトして言う言葉です。
しかし、キリスト教の神は、神であることを隠すように僕らと同じ目線で僕らと同じ困窮をして、僕らと同じ生活をする人です。
そこにはじめて「隣人を自分と同じように愛しなさい」と言う重みのある言葉が生きてくると思うのです。
特に目立つ人ではない中にこそ、僕らが必要としている隣人はいるのです。
炊き出しのごはんが自分の前の人で終わってしまうかもしれない不安、お腹が空いて倒れそうな自分の横でふぅーふぅーと熱いものを冷ましながらおいしそうに食べている「このやろうめ、な奴」。そんな時も静かに耐えて待つ人故に神としての信頼をおきます。
もしかしたらそれは、ロシアの文豪トルストイの名作「靴屋のマルチン」のように神が姿を変えて僕らの前に現れているのかも知れません。あたなは私のようにつらい体験をして優しくなれるのですよ、と。

若かりし頃は、僕も「足が上がらないでつまずく」ことも「暴飲暴食しても胃もたれがする」こともありませんでした。だから、高齢の人がそんなことを言っても心から同意し、本心で気の毒に思うことはありませんでしたが、今は違います。自分が体験すれば、心の底からアーメン(その通り)と言えます。
イエスのした出来事はこうした実体験だったのでしょう。だから僕は神にすべてを委ねられるのです。

****

20190113-02


今日は、世は成人式やどんど焼き(左義長)のお祭り。礼拝後はみなさんすぐに帰られる方も多く、少数精鋭の『きょうかいニュース』作成でした。
教会を改修してカフェ[にこっと]を併設し、日曜以外も有益に使ってもらうために楽しい会議が進んでいます。

20190113-01
  1. 2019/01/13(日) 17:17:35|
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