LOGOS-喜びを分かち合い、悲しみをともにするために-

真実な人間性の回復

2019年1月27日、松田聖契キリスト教会に与えられたみ言葉は、旧約イザヤ書 61章1-6節。表記のタイトルの説教を清水靖牧師より受けました。今回も礼拝で説教を聞いた内容を一信徒が思ったこと、話を咀嚼し想像したことを含めて綴ってみます。(なお、新改訳聖書を持ち合わせておりませんので、下記聖書箇所は新共同訳聖書に基づきます。また、公式のメッセージについてはこちらをご覧頂きたいと思います。)
なお、聖書は章節のナンバーも記載いたします。

61:1 主はわたしに油を注ぎ/主なる神の霊がわたしをとらえた。わたしを遣わして/貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。打ち砕かれた心を包み/捕らわれ人には自由を/つながれている人には解放を告知させるために。
61:2 主が恵みをお与えになる年/わたしたちの神が報復される日を告知して/嘆いている人々を慰め
61:3 シオンのゆえに嘆いている人々に/灰に代えて冠をかぶらせ/嘆きに代えて喜びの香油を/暗い心に代えて賛美の衣をまとわせるために。彼らは主が輝きを現すために植えられた/正義の樫の木と呼ばれる。
61:4 彼らはとこしえの廃虚を建て直し/古い荒廃の跡を興す。廃虚の町々、代々の荒廃の跡を新しくする。
61:5 他国の人々が立ってあなたたちのために羊を飼い/異邦の人々があなたたちの畑を耕し/ぶどう畑の手入れをする。
61:6 あなたたちは主の祭司と呼ばれ/わたしたちの神に仕える者とされ/国々の富を享受し/彼らの栄光を自分のものとする。


松田教会では、前奏楽・賛美・主の祈り・交読・祈祷・賛美・聖書朗読・説教と礼拝は続きます。
説教の前の聖書朗読が上記の箇所ですが、その前の交読はルカによる福音書4章14―21節、下記の箇所です。

4:14 イエスは“霊”の力に満ちてガリラヤに帰られた。その評判が周りの地方一帯に広まった。
4:15 イエスは諸会堂で教え、皆から尊敬を受けられた。
4:16 イエスはお育ちになったナザレに来て、いつものとおり安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとしてお立ちになった。
4:17 預言者イザヤの巻物が渡され、お開きになると、次のように書いてある個所が目に留まった。
4:18 「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、/主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、/捕らわれている人に解放を、/目の見えない人に視力の回復を告げ、/圧迫されている人を自由にし、
4:19 主の恵みの年を告げるためである。」
4:20 イエスは巻物を巻き、係の者に返して席に座られた。会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれていた。
4:21 そこでイエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められた。


ちょうどイエスに渡された箇所が今日松田教会に与えられた御言葉の箇所のお話です。イザヤ書の後半はいつだれによって書かれたかは不明ですが、少なくともイエスが生まれる数百年前には書かれており、イエスの時代には書面として神殿に保管されていました。
それを慣例に従ってイエスが読み上げ席に座り、民衆はイエスの言葉を待った、と書かれているわけです。
イエスの行動は、まさに松田教会で言う司会者と説教者を一緒になされたようなものです。
僕らもこの日、司会者のT姉が読み上げた聖書の箇所を聞き、「説教、清水牧師より、真実な人間性の回復です」と言う言葉とともに牧師からのメッセージを聞き漏らさないようにと壇上に上がる牧師に注視しました。
2000年経った今も同じようにしたわけです。

その時イエスは「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と語られました。
この聖書の言葉と言うイザヤ書61章、ヨベルの年の話を今日はお聞きしたわけです。
ヨベルの年と言う言葉は聞きなれない言葉かもしれませんが・・・、
ヨベルの年とは、7年ごとに土地を休ませる安息年が7回巡った次の年、つまり第50年目の年を指します。
安息年が7回めぐり、49年目となると第7月の10日(つまり、贖罪の日)に角笛を鳴り響かせ、ヨベルの年の到来を告げます。ヨベルとは、「雄羊の角」(ヨシュア記6:4)という意味です。と物の本に記されていますが、この年が来ると全ての負債が帳消しにされます。
それは捕囚と言う屈辱と困窮、そして重税と貧困に苦しむユダヤの民にとっては喜びだったに違いありません。重荷だったものが消えてなくなるのですから・・・。
失業や悪質労働条件のもと得れる賃金では生活できない人がサラ金からお金を借りてにっちもさっちもいかなくなってあとは死を待つしかないのか…と言った時に、サラ金各社が返済を免除しようと言ったらそれは喜ぶでしょう。

しかし元々の意味はそうした負債は人と人との契約であり、神はあなたに何の負い目も与えていないんだよ、と言う意味です。「立って半畳、寝て一畳」裸一貫で生まれてきたのだから生後所有したものだって一時的に神から借りているもの、神に返しましょうという、神に立ち返れ、と言う原点回帰を忘れないようにするための社会ルールだったのだと思います。

しかし、借金が無くなったと喜んでも、きっと社会やその人を取り巻く環境が変わらなければまた借金をしなくてはならないでしょう。
貧しい人の上に福音が、と言っても、また元の生活になったのであれば元の木阿弥です。

イエスはなにゆえに「大丈夫だ」と語るのでしょう?
自分に見合った生活で満足する術を覚えればどうでしょうか?
隣の芝生は青い、と言う喩えがありますが、だからどうした?私は自分の家の芝生が大好き、なら気にならないわけです。
心の解放、神への帰依。インマヌエル、いつもあなたと一緒にいますと言う神の言葉だけを糧に今週も生きていきたいです。
そう、古くからの言葉に『襤褸を着てても心は錦』とあります。まず心が満足できることが大切だと思います。
心の満足とはなんなのでしょう?一番大事な1つだけで満足することです。

****

会堂の中の礼拝堂以外の部分を近隣の方々の集会を兼ねたカフェにしてのリフォーム計画はいよいよ実工事直前まで迫ってまいりました。
M工務店の棟梁と契約書を交わし、工事が始まります。

写真は、松田駅からの来る道すがらの礼拝堂と今日のお昼、清水牧師お手製のカレーです。

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  1. 2019/01/27(日) 19:44:17|
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還暦前年(念)

どうやら7という数字は、この地球のサイクルにあった数字なのかもしれない。
1週間を7日とした、という話が含まれている創世記も紀元前1世紀の間に書かれたものと言われているし、初七日や七七日という仏教もその底辺にあるのは古代インド文明の7進法だ。
7進法とは何か? といえば、月の満ち欠け。28日周期を4分割にしたものだといわれている。
つまり、仏教の七七日(しじゅうくにち)の発想もユダヤ教の7×7+1で1つ越したペンテコステも同じ発想が起源なのだろう。もちろんそうした宗教をベースに日本では七福神などというものも貴ばれたりもする。

夢枕獏氏という郷土の作家がいる。氏の作品の中で「月に呼ばれて海より如来る」と「上弦の月を喰べる獅子」という2つの小説がある。特に好んで読んだ2作だ。テーマは「らせん」
なぜオーム貝は生き延びアンモナイトは滅んだか? それは、オーム貝のらせんはいい加減なのに対し、アンモナイトはきちんと月を刻んだからではないか?と夢枕氏は推測する。
月とシンクロするゆえに月を刻む。それは極めて居心地がいい。阿吽の呼吸でいられる。まさに母なる海、いや母なる宇宙の羊水の中にいられるようなものだ。
しかし、ご存知かもしれないが、地球と月の距離は徐々に離れていく。月齢は日々遅くなっていくのだ。つまりシンクロしていたものがなん百万年かかる間にシンクロしない不協和音になる。
いい加減なオウムガイはもともといい加減だから多少の不協和音にはものともしないが、アンモナイトはその律義さにより不協和音を受け入れられなかった。いや、羊水の中という恩恵から出ざるを得ない転機を受け入れなければならなかったが、受け入れができなかった。

僕も49年という月齢から生み出された七進法の7倍の時からはや10年。59歳を迎えた。
プラス10年と言う月日は、月齢と螺旋の関係でいえばシンクロしなくなってくる頃なのか・・・僕は変化を受け入れられたのか?
そもそも社会の変化とは何か?
世界中が急速に世知辛くなった。他人に対してだ。生活保護費でパチンコに行ったからけしからん、とか、小さな無人島の所有権はわが国だ、とか。テロが日常茶飯事に起きた。平和と言われた日本でも無差別殺人のニュースが多く取り上げられている。それだけ誰もが疲弊しているからだろう。
月が徐々に地球から離れていくように、社会も徐々に資本主義社会の終焉に向かっている。お金を中心に物事を考えなければならないことで困窮しているのだ。会社ではノルマが与えられ競争を強いられる。
経済で測るから保護費でパチンコをすることも、無人島の所有もけしからんとなる。もうこの世の中なんかなくなっちまえと自暴自棄になる。
僕はパチンコが有益な時間の使い方には見えず退屈な時間つぶしに見える。だからこそ時間でいえばかわいそうであってもけしからなくはない。無人島の経済的(ここにも資本主義的な思想が…)排他水域内に有益な金属が埋まっていようが僕の所有物じゃないし、三菱電機が伸びるかサムソンが伸びるかファーウェイが伸びるかの違いで僕の生活にはかかわりがない。
そんなことに目くじら立てるくらいなら僕の生活に密着したことにかかわりたい。
僕はオウムガイのように柔軟にこの社会変化を受け入れ、新しい価値観の中で生きられているのか?それともアンモナイトのように資本主義と高度成長の残像を忘れられずに滅ぶのか?
キリスト教的に言えば、原罪と言うエゴの罪からイエスが解放してくれた洗礼を儀式ではなく、実体験として受け入れられるかだ。

さて、インド文明の7進法とは違う12進法。時計を中心とした時間はここから来ているがこれは古代中国殷の時代の文化。干支の起源。そんな干支からの発想還暦はいよいよ来年だ。
イニシャライズ(初期化)の年。さて、変化の集大成をこの一年で感じられるか?
時は右傾化した思想の蔓延の中改憲が進められている。改憲は過去への回帰。決して未来ではない。
もう少し精神的に穏やかな安らぎのある社会になってほしいな。隣国に恐々としないで笑顔で握手できる環境なってほしいな。
それは祈りでもあるし、自分がそういう行動を起こせるようにという誕生日の思い。

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さて、そんな誕生日にCANONさんから素敵な誕生日プレゼント。
皮のカメラストラップ。ちょっとうれしい。やっぱり僕は現金な業に生きる人間なのかもしれない。
まぁ四角四面に生きるのも大事だが過ぎたるは及ばざるがごとし、ともいう。自分も隣人も笑顔で生きる一年になれたらいいものだ。
  1. 2019/01/23(水) 00:02:01|
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カナの婚礼

2019年1月20日、松田聖契キリスト教会に与えられたみ言葉は、ヨハネによる福音書 2章1-11節。表記のタイトルの説教を清水靖牧師より受けました。今回も礼拝で説教を聞いた内容を一信徒が思ったこと、話を咀嚼し想像したことを含めて綴ってみます。(なお、新改訳聖書を持ち合わせておりませんので、下記聖書箇所は新共同訳聖書に基づきます。また、公式のメッセージについてはこちらをご覧頂きたいと思います。)
なお、聖書は章節のナンバーも記載いたします。

2:1 三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があって、イエスの母がそこにいた。
2:2 イエスも、その弟子たちも婚礼に招かれた。
2:3 ぶどう酒が足りなくなったので、母がイエスに、「ぶどう酒がなくなりました」と言った。
2:4 イエスは母に言われた。「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。」
2:5 しかし、母は召し使いたちに、「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」と言った。
2:6 そこには、ユダヤ人が清めに用いる石の水がめが六つ置いてあった。いずれも二ないし三メトレテス入りのものである。
2:7 イエスが、「水がめに水をいっぱい入れなさい」と言われると、召し使いたちは、かめの縁まで水を満たした。
2:8 イエスは、「さあ、それをくんで宴会の世話役のところへ持って行きなさい」と言われた。召し使いたちは運んで行った。
2:9 世話役はぶどう酒に変わった水の味見をした。このぶどう酒がどこから来たのか、水をくんだ召し使いたちは知っていたが、世話役は知らなかったので、花婿を呼んで、
2:10 言った。「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、酔いがまわったころに劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました。」
2:11 イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた。


有名なカナの結婚式の場面。イエスが初めて奇跡をおこなった場所。
清水牧師はこの箇所の存在意義について考えるところから今日の説教を始められました。
福音書に記されているイエスの歩みの多くは、事の善悪を説く場合が多いです。時には律法について宗教者たちと闘うこともあったり、癒しを与えたり、結果ジャッジを得られることが多くあります。
しかしこのカナの結婚式では、表面面だけ見れば、言い争う相手もいなければ、ジャッジングを問う場面もありません。
意見の食い違いはなく、ただ、お祝いの場面で、皆がハッピーになれました、と言うお話です。今日は礼拝の中で「祈り」の当番でしたので、今日の聖書の御言葉を通じての祈りをしましたが、初めての奇跡が難しい話ではなくただ皆の幸せな笑顔になる奇跡だったことに僕は感銘すら覚えた、できればこの1週間も自分も隣人も笑顔で居れるように、イエスの奇跡のように笑顔を生みだせるように、と祈ったのですが、イエスの奇跡はそうした社会になることだったのではないかと思います。

しかし不思議な箇所です。誰かの結婚式に招かれた話であれば、新郎や新婦の名前、またイエスや母マリアとの関係などから書き始めるでしょうけれど、一切そこには及言していません。どれだけの関係者なのかも読者に伝えないまま書かれた結婚式とイエスの初めての奇跡。
福音書の著者が書かなかったのは、初めての奇跡を見ての驚きが余りにも大きかったからかもしれません。それに比べれば、誰の結婚式であろうがイエスとの関係がどうであろうが、もうそんなこと全てよくなったのではないでしょうか?

もちろん細かい内容にも踏み込まれました。
6節にはユダヤ人が清めに用いると言う文言があります。現在の社会においてでも、清めること、穢れることは、差別を助長するものでもありますが、ユダヤの世もそうでした。イエスはこのあと公生涯を送る時、穢れをもっていると言われた羊飼いや取税人、医者や血の病を患っている人など差別なく接していたので、宗教的指導者からは疎まれた存在でした。
たぶんこのかめは聖別をするための道具であったのでしょう。特別な人のみ触ることが許された水を結婚式に参列した誰もが喜びと祝いの笑顔の道具に変えたのです。
ここにキリスト教が「愛の宗教」と言われる所以が発生しました。

そして母マリアはいいます。この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください
この言葉に神の言葉に従順でいる大切さが語られています。

また、「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、酔いがまわったころに劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました。と言う言葉にごまかしのない真実の人であることが語られています。

当初今日の箇所はお祝いの席に集った皆が幸せになっただけ、と語りましたが、よく考えれば、僕らはこの世に生きとし生けるものすべてが幸福になることこそが、至上の喜びではないでしょうか。
愛と神の導きと真実の生き方、これこそが一番大事なこととイエスは最初の奇跡の中で身をもってそっと教えてくれたのだと思います。

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さて、今日は午後から炊き出しの準備があり、急いで日本キリスト教団小田原教会に行かなければいけなかったので昼食は残念ながら食べられませんでした。
しかし、清水牧師渾身の大作、リノベーションをした新会堂の3D模型が飾ってあったのでそれをぱちり。
イースターはこの会堂でお祝いできたらいいな。
  1. 2019/01/20(日) 18:24:47|
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舟原日向の石造物調査

昨秋からご無沙汰になってしまっている石造物調境。定例会も冬のお休み時期なので、自主調査だけでもと、Fさん、Iさんと我が家2人の4人で、北舟のTさん敷地内と熊野神社を調査。

Tさん宅は敷地内なので事前に調査依頼済。家のちょうど裏からがけを登り小道を進みます。裏山が崩れるといけないとコツコツご家族でコンクリートを吹き付け土止めをなされているとのこと。

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確かに山が崩れつつある中の石造物ですので半分埋まっていているものが多かったです。文字のバランスからみて板碑の下半分と座台の石がまるまる埋まっていると思われます。
写真の板碑のほかにも天衣を羽織った馬頭観音、弓、矢、宝輪、未敷蓮華をもっているから愛染明王(?)6手合掌の青面金剛 の船型庚申塔、寒念仏供養塔など9点もががけの下を向いています。年号が刻まれている物を見れば、多くが江戸中後期のもの。
高台になぜ? 通行できないところになぜ? と場所がとても不思議です。
敷地所有者のTさん曰く、ここには水路があって村の人たちが水を汲みに来た時にお参りされたのでは、といわれます。寒念仏と言う村の方々の苦行の記念なら水汲みと言う公的な場所でもわからなくはないですが、それでも目線が合う場所につくらなかったのか?という疑問は消えません。

しかし、石造物と言う歴史的文化財が山の崩落で半分埋まっていることに対して公的な費用で保護はできないものでしょうか?

写真は僕らが通常行っている作業である小麦粉をたんぽで凹に入れ文字を見る最中の状態。このあと水で洗い落して現況回復をします。
お礼を言い、熊野神社に向かいます。

こちらにもまったく詳細不明の石造物が半分地中に埋まっていました。

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後からコンクリで下の座石に固定したようですがなんなのでしょうか?神社の総代さんは自治会長が兼任と言うことで、現在の自治会長さんはお若い方なので、地の古老の方にお聞きすればわかるでしょうか?

歴史ある久野のこと、まだまだ知らないことが沢山です。
  1. 2019/01/19(土) 23:10:03|
  2. _StoneMonument
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イエスの洗礼

2019年1月13日、松田聖契キリスト教会に与えられたみ言葉は、ルカによる福音書 3章15-17節並びに3章21-22節。表記のタイトルの説教を清水靖牧師より受けました。今回も礼拝で説教を聞いた内容を一信徒が思ったこと、話を咀嚼し想像したことを含めて綴ってみます。(なお、新改訳聖書を持ち合わせておりませんので、下記聖書箇所は新共同訳聖書に基づきます。また、公式のメッセージについてはこちらをご覧頂きたいと思います。)
なお、聖書は章節のナンバーも記載いたします。

3:15 民衆はメシアを待ち望んでいて、ヨハネについて、もしかしたら彼がメシアではないかと、皆心の中で考えていた。
3:16 そこで、ヨハネは皆に向かって言った。「わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。
3:17 そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。」

3:21 民衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受けて祈っておられると、天が開け、
3:22 聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た。すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。



AKB(と言うアイドルグループ)が一世を風靡し始めたころから『神』と言う言葉を本来の神以外にも使う若者用語として流行っています。
大勢が舞台に上がる彼女らが舞台上の真ん中で歌うためには「選挙」と言うシステムでたくさん投票を受けなければならず、そんなところからセンターで歌える彼女らを『神』と呼ぶようになったわけです。そこから発生して特別な能力、人に秀でた能力を持つ人、人を驚かせる大事件の主犯などの事を『神』と呼ぶ言い方がはやっています。

さて、今日の聖書の箇所は、困窮のユダヤの民が虐げられた毎日の中でいつかは神の御許から救い主がこの世にやってきて自分たちを救ってくれると何千年も信じている最中のお話。
何千年も、と言うのは、もう伝説化になっているほどの長い時間ですが、彼らは頑なに「いつかは」を信じていたわけです。
「どんなお方なのだろう?」その風貌も、「どこに現れるのだろうか?」その場所すらわからないですが、いつかと言う希望だけは持っていたわけです。
そんな時にヨハネと言う若者がそのメシアだという噂が立ち、彼から救いのためのバブテスマを受けようと長蛇の列ができた、と言うのが今日の聖書の箇所。

その列にイエスも並ばれるのです。本物のメシアが・・・・、民衆からメシアと言われたものの「イエスの履物のひもを解く値打もない」、とヨハネが言っているそのイエスが!!、です。
そもそもバブテスマとは罪ある人が、悔い改め神に従って生きるための儀式です。ですから神の御許から来て罪を犯していないイエスは受ける必要もないのです。

ですから、共観福音書マタイによれば
3:13 そのとき、イエスが、ガリラヤからヨルダン川のヨハネのところへ来られた。彼から洗礼を受けるためである。
3:14 ところが、ヨハネは、それを思いとどまらせようとして言った。「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか。」
3:15 しかし、イエスはお答えになった。「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」そこで、ヨハネはイエスの言われるとおりにした。


と、ヨハネはイエスの洗礼を一度は否定するものの、イエスの願いで洗礼を授ける訳です。
しかも普通の人と同じように列に並んでです。
これはどういう意味なんでしょうか?
清水牧師は大阪釜ヶ崎の本田哲郎神父の著書から話を進めます。
小田原や寿でもやっている越冬炊き出し。そこでは調理した食事を配食する時に長い列ができます。
多くの野宿者は、例えば飲み終わったアルミ缶を集めて日銭をため1日1食の弁当を食べたりしていますが、それはアルミ缶を業者に持って行き、換金してもらってこそお金になる訳です。アルミ缶では食べられません。
しかし、そうした業者も年末年始は休みを取ります。必然、彼らは換金の手段を失い、約1週間食事がとれなくなります。
寒い冬満足に食べられなければ「死」を迎えます、それを防止するのが越冬炊き出しなんです。まさに「越冬」の闘いなんです。そんな炊き出しの行列の後ろを指さし、「見てみぃ、イエスはんが一番後ろに並んでおられる」

イエスはなぜバブテスマを受けるのか? は、みなと同じ目線での行動であるのです。ですから神の御子とはいえ、偉そうに横から割り込んだり、誰の目にもイエスとわかるような服を着て、ではないのです。
普通に普通に列に並び、同じように時間を使って自分の番を待つのです。

AKBに端を発した『神』とは、2年連続得票がトップであるとか、YouTubeの動画で誰もが驚くようなすばらしい技を見せたりとかする人をリスペクトして言う言葉です。
しかし、キリスト教の神は、神であることを隠すように僕らと同じ目線で僕らと同じ困窮をして、僕らと同じ生活をする人です。
そこにはじめて「隣人を自分と同じように愛しなさい」と言う重みのある言葉が生きてくると思うのです。
特に目立つ人ではない中にこそ、僕らが必要としている隣人はいるのです。
炊き出しのごはんが自分の前の人で終わってしまうかもしれない不安、お腹が空いて倒れそうな自分の横でふぅーふぅーと熱いものを冷ましながらおいしそうに食べている「このやろうめ、な奴」。そんな時も静かに耐えて待つ人故に神としての信頼をおきます。
もしかしたらそれは、ロシアの文豪トルストイの名作「靴屋のマルチン」のように神が姿を変えて僕らの前に現れているのかも知れません。あたなは私のようにつらい体験をして優しくなれるのですよ、と。

若かりし頃は、僕も「足が上がらないでつまずく」ことも「暴飲暴食しても胃もたれがする」こともありませんでした。だから、高齢の人がそんなことを言っても心から同意し、本心で気の毒に思うことはありませんでしたが、今は違います。自分が体験すれば、心の底からアーメン(その通り)と言えます。
イエスのした出来事はこうした実体験だったのでしょう。だから僕は神にすべてを委ねられるのです。

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今日は、世は成人式やどんど焼き(左義長)のお祭り。礼拝後はみなさんすぐに帰られる方も多く、少数精鋭の『きょうかいニュース』作成でした。
教会を改修してカフェ[にこっと]を併設し、日曜以外も有益に使ってもらうために楽しい会議が進んでいます。

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  1. 2019/01/13(日) 17:17:35|
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本を選ぶ ということ

得てして本を購入する際には、人から勧められた本と、時間つぶしに立ち寄った本屋で衝動買いした本に分かれる。
前段の三島由紀夫氏に関する本は雑誌編集者の町田厚成氏のBlogを読んで興味を示したものであり、後者の東野圭吾氏のは1時間ほど余った時間をカフェでつぶすために小田原駅で購入したものだ。
時同じくして購入した。

件の町田氏のBlogのコメント欄にも記したが、三島由紀夫氏は好き嫌いの前に拒否反応を示して読んでいない作家だ。
多くの作家が自死の最後をしている。が、そこには、物書きの自分の限界を感じてしまった部分や逆にこれだけの文学を認めようとしない社会に対しての批判があるように思う。自らを殺そうとした自殺ではなく世を儚んでの絶望の自死だ。
が、三島由紀夫氏は、日本社会の主義主張に対しての決起を「国軍であるべき」自衛隊さえも真剣に受け止めないことに対しての抗議の割腹自殺だった。文学とは関係ない死を選ぶ。
何故だ?と言うのが

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町田氏がBlogに記したこの本だ。

それによると
1970年三島氏は遺作となる大作を、それまでの過程をすべてぶち壊す最後の数ページを記したのち自衛隊に押し入り、大演説をしたものの自衛隊員はその演説に奮起をすることなく逆に失笑を受け割腹自殺をした。
当時10歳の僕は大ニュースになりながらも、有名な作家が時代錯誤の割腹自殺という表面面のニュースを聞いただけで、その経緯や意義、思想に触れることはなかった。あまりにも奥手で無知であり、なおかつその死の方法に否定をしたからだと思う。

その10年前の60年から日本は安保問題に揺れる。父親は全専売で旗を振っている執行部だったらしく社会党で数少ない総理である片山哲氏の色紙がうちにあるくらいだったが、何しろ僕は無知で奥手なので「あんぽんたん」と言う言葉があり、そんな言葉の響きに似ているだけの僕の生活とは全く関係のない話だった。
そんな世の若者が反米、反戦、反貧困、反差別になびくことに反発し、現人神の天皇のこの国家のために立ち上がれと言いたかったのかもしれない。

町田氏はこんな本も紹介してくれた。

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「(息子の三島由紀夫から)『昨夜一気に書き上げた』と渡された原稿を一読して、私は全身の血が凍る思いがした。
 どういう気持から書いたのかと聞くと、ゾッとする答が返って来た。
 『手が自然に動き出してペンが勝手に紙の上をすべるのだ。止めようにも止まらない。真夜中に部屋の隅々から低いがぶつぶつ言う声が聞える。大勢の声らしい。耳をすますと、2・26事件で死んだ兵隊たちの言葉だということが分った』
 怨霊という言葉は知ってはいたが、現実に、息子に何かが憑いているような気がして、寒気を覚えた」

そして、友人の三輪明宏氏も三島氏の後ろに霊が見え、そのことを三島氏に語るとその特徴を聞き「ああ、それは磯部浅一という将校だ」と答えるとその霊はすっと消えた、と語ったらしい。

キリスト教の信仰は、そういうオカルトじみたことを語ることを好まない。しかしそれはいわゆる「霊感商法」と言う捻じ曲げた宗教まがいの悪徳商法に引っかからないような対策なのかもしれない。げんに後者の存在が分かった瞬間姿が見えなくなった話を読んで僕は聖書の中のエマオへの道のシーンを思い出したし、前者のことも異言を語る者がいるということに通じる何かを感じてしまう。

三島氏の自殺は自らの意志でもあり、もしかしたら自ら以外の意志なのかもしれない。英霊の聲は、2・26事件の将校の霊の話だ。お国のために、現人神のために命を懸けたのに、(戦後)天皇は神ではなく人になってしまった。神になら人生をかけるのは吝かではないが、人になるとは何事だ、と言う霊の言葉が三島氏に憑依したのならあの事件は納得できてしまう。神国日本を再興しようという闇の力がシンクロした人間の肉を借りて湧き上がってきたのかもしれない。

そんなことを漠然と思った時に購入したのが

20190110-03

「変身」はカフカの代表作だが、もう少し現実的な変身だ。
人間とはどういう生き物なのだろう? 遺伝子操作が出来、細胞培養技術が進む昨今、たぶん僕と言う人物を作るのはもう可能なんだろう。
僕の細胞を培養すれば、身長170cm弱、体重70kgのぼぉつとした顔の男性は作れる。が、たぶんそのTakeもどきはTakeの記憶を持ち合わせていないはずだ。1960年以降の五感を駆使した様々な出来事は脳と言うハードディスクに格納されるが、このハードディスクは酸素と言うエネルギーが送られなければデータを失うからだ。このデータは遺伝子ではない。
ならば、脳移植をしたら、その後のその人はだれか? がテーマの小説は、前記の三島氏の憑依とは別の憑依を感じる。
人間の行動とは何か? 人間は何の力で行動しているのか? 己か?他のパワーか?

本を紹介してくれたので読むということも一瞬の小さな憑依で、どんなに紹介されても読まないという選択肢もあるのに、なぜ僕は読んだのだろう?なぜ…読まされてしまったのだろう?
  1. 2019/01/11(金) 00:54:01|
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キリストにある霊的訓練と成長

2019年1月6日、松田聖契キリスト教会に与えられたみ言葉は、ヨハネによる福音書 3章1-15節。表記のタイトルの説教を清水靖牧師より受けました。今回も礼拝で説教を聞いた内容を一信徒が思ったこと、話を咀嚼し想像したことを含めて綴ってみます。(なお、新改訳聖書を持ち合わせておりませんので、下記聖書箇所は新共同訳聖書に基づきます。また、公式のメッセージについてはこちらをご覧頂きたいと思います。)
なお、聖書は章節のナンバーも記載いたします。

20190106-01

3:1 さて、ファリサイ派に属する、ニコデモという人がいた。ユダヤ人たちの議員であった。
3:2 ある夜、イエスのもとに来て言った。「ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです。」
3:3 イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」
3:4 ニコデモは言った。「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか。」
3:5 イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。
3:6 肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。
3:7 『あなたがたは新たに生まれねばならない』とあなたに言ったことに、驚いてはならない。
3:8 風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。」
3:9 するとニコデモは、「どうして、そんなことがありえましょうか」と言った。
3:10 イエスは答えて言われた。「あなたはイスラエルの教師でありながら、こんなことが分からないのか。
3:11 はっきり言っておく。わたしたちは知っていることを語り、見たことを証ししているのに、あなたがたはわたしたちの証しを受け入れない。
3:12 わたしが地上のことを話しても信じないとすれば、天上のことを話したところで、どうして信じるだろう。
3:13 天から降って来た者、すなわち人の子のほかには、天に上った者はだれもいない。
3:14 そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。
3:15 それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。


この年度は年間を通じてルカによる福音書を通してのメッセージを受けているところですが、2019年最初の礼拝は主題聖句として掲げる聖句からのメッセージをなされることを通例としているとのことで、今年度は前述のヨハネによる福音書3章1-15節からとなりました。

20190106-02

そもそも松田教会を含む聖契キリスト教会は、6つの原則指針を信条としているとのこと。それは、神のことばの中心性。新生の不可欠性。教会の包括的宣教に対するコミットメント。信者の交わりとしての教会。聖霊への自覚的依存。キリストにある自由の現実性。
この6つを順番にその年の主題とする、とのことです。

さて、説教に話を戻します。
聖書は、2節にニコデモに「知っています」と言われたことが書かれています。「知っています」と言う言葉は、その言葉にいかような厚みがあるかを把握しなければなりません。
3節以降のイエスとの問答。たぶんこのBlogを読んでいる人は誰もが何かちぐはぐな感じを受けるのではないでしょうか?
そしてとどのつまり10節以降のようにイエスにあきれられてしまうのです。実はよく知らないのに「知っている」と言った・・・もちろん教師として崇められた立場の人だから「それなり」には知っていたのですが、信仰は知識ではない訳です。
教師として豊富な知識を持って満足していたのでしょうけれど、実態感はなかったのではないでしょうか? 今のように神の存在が希薄ではない時代、それゆえに教師として崇められていても神への恐怖と喜びは感じれなかったのかもしれません。
本当に人が様々なことから解放され、罪が許され、聖霊に満たされ、喜びに行きれたか? は、知識ではなく体験なのだとイエスは語っています。実体験では何も「知って」いなかった訳です。この世のしがらみの中で、この世の常識の中で、喘ぐように生きてきたのではないでしょうか?
肩書は立派でも決して喜びにあふれた毎日ではなかったのではないでしょうか?
周囲の目が気になってしょうがなかったのでしょう。若造のイエスに聞きに行くのを知られるのはこの上もなく恥ずかしかった、それ故に夜陰の乗じてこっそりと来たのではなかったのではないでしょうか?
21世紀の今の社会においても、聖書の言葉を「知っている」けれど、実は世のしがらみにとらわれて悪戦苦闘をしている人はたくさんいると思うのです。

信仰は成長だと牧師は語ります。成長がない時は堂々巡りをしてそのスキルの中でしか生きられませんが、成長をすることは失敗をしその失敗を生かして新たなスキルに上がる事だと語ります。
だから成長には失敗はつきもので、信仰者にだって数多くの失敗が与えられます。でも堂々巡りではない、その失敗を活かして成長に変革させる中で、人生の喜びと明日への希望がわくわけです。

向上心は気力です。チェレンジには気力が必要です。頭の中で「知っている」だけではなく、気力溢れる日々、喜びと希望にあふれる日々、失敗して落ち込んだ時そうした「新生」するファイトがわく時、神様はそっと手を差し伸べ聖霊に満たしてくれる訳です。「あれ? 心が軽くなった」「不思議と気楽に生きられる」「毎日がなんだか喜びにあふれている」「『感謝』って実感できる」それが、15節のそれは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。だと思うのです。
永遠の命って死なないことではないのです。死の瞬間、ああいい人生だったと神の御許に行くことだと思うのです。この世への不満や怒りなどを持ったまま死なない事だと思うのです。
ですから、落ち込んだ時、そんな事をふとでも思い起こせてくれればうれしいですし、僕もこの一年感謝と祈りと喜びの年にしたいものです。

****

20190106-03

さて、新年最初はやはり通例の昼食会はお汁粉が慣例だそうです。毎月第1週に行っている新会堂建築の祈祷会をした後、12人もの信仰の友とテーブルを囲み、おしゃべりをしながら楽しく過ごしました。
  1. 2019/01/06(日) 23:13:59|
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おせちもいいけどカレーもね

礼拝出席教会の変更、住まいの転居、余暇の相棒だったキャンピングカーを手放す、という人生の根底を揺り動かす大一番の一年だった2018年は、小田原教会の信仰の先達をお見送りし、そして炊き出しで幕を締めました。
夜の訪問は転居に伴い物理的(時間的)に伺えなくなったので、炊き出しに集まる方も知らない顔ばかり。
訪問を続ける仲間に聞けば、ここに来ているのは、生活保護を利用している方ばかりとのこと。
活動の根底をこちらも揺るがされてしまいます。
多くの野宿を余儀なくする方はあまり人づきあいがうまくないし、そもそも昨今の日本は小田原のような都会ではない町でも隣近所とのお付き合いは希薄になり、ここに来れば「旧友」と会えるのなら、炊き出しを続ける意義はあるし、でももっと困窮している人も多くいるのならそちらにも手を出したいという希望もあるし、でも何よりはこのボランティアをしている中心は後期高齢者の面々が多く若い人が入ってこなければそう長くない先には終止符を打たなければならないことも事実だし、といろいろと思い煩う今日この頃。

正月は「明日はお雑煮」と呼びかけたけれど8人しかお越しいただけず残念でした。が2日はようやく12人とかろうじての二ケタ。
炊き出しに来られる人数が少ないのはどうにか食べ繋げているのだから嬉しいことだけれど、50人近くの方が来ていた時期に比べれば寂しい状況です。
それでも、支援者の方は、昨年末に転会(他の教会から小田原教会に籍を移された)をなされたM姉がお孫さんを連れて連日ご参加くださったり、「さとにきたらええやん」実行委員を一緒にやったサニーさんが来てくれたりと嬉しい出来事もありました。

連日の炊き出しは今日3日までで、このあとは2月まで毎日曜日のみとなります。
今日は、小田原交流パトのメンバーのT兄のご友人のお店のカレー。毎日おにぎりとトン汁ばかりなので目先を変えて、と言うことができるのも現場のメンバーの後ろにこうした見えない方々のご支援があればこそ。

20190103-01

僕らは彼らの困窮の「こ」の字も減らすことはできませんが、それでも何かあった時に、この冬炊き出しで食べた味を思い返し、「悪い事ばかりじゃない」と踏ん張ってくれれば、と思います。

変貌を遂げた2018年を過ごし、あたらな2019年を僕も迎えました。この先何が待ち構えているか、はまさに神のみぞ知るところです。
そしてそれは野宿の仲間、生活保護利用者の仲間の方も同じでしょうね。もしかしたら不安と失望の念で新年を迎えたかもしれませんが、きっといいこともたくさんあると毎日笑顔でいたいものです。

いつも喜んでいなさい。
絶えず祈りなさい。
すべての事について、感謝しなさい。


これを実践していればきっと2019年はいい1年になれるはずです。
僕も顔晴っていきます(^_^)/
  1. 2019/01/03(木) 23:59:52|
  2. _ 野宿者
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神殿での少年イエス

2018年12月30日、松田聖契キリスト教会に与えられたみ言葉は、ルカによる福音書 2章41-52節。表記のタイトルの説教を清水靖牧師より受けました。今回も礼拝で説教を聞いた内容を一信徒が思ったこと、話を咀嚼し想像したことを含めて綴ってみます。(なお、新改訳聖書を持ち合わせておりませんので、下記聖書箇所は新共同訳聖書に基づきます。また、公式のメッセージについてはこちらをご覧頂きたいと思います。)
なお、聖書は章節のナンバーも記載いたします。

20181230-01


2:41 さて、両親は過越祭には毎年エルサレムへ旅をした。
2:42 イエスが十二歳になったときも、両親は祭りの慣習に従って都に上った。
2:43 祭りの期間が終わって帰路についたとき、少年イエスはエルサレムに残っておられたが、両親はそれに気づかなかった。
2:44 イエスが道連れの中にいるものと思い、一日分の道のりを行ってしまい、それから、親類や知人の間を捜し回ったが、
2:45 見つからなかったので、捜しながらエルサレムに引き返した。
2:46 三日の後、イエスが神殿の境内で学者たちの真ん中に座り、話を聞いたり質問したりしておられるのを見つけた。
2:47 聞いている人は皆、イエスの賢い受け答えに驚いていた。
2:48 両親はイエスを見て驚き、母が言った。「なぜこんなことをしてくれたのです。御覧なさい。お父さんもわたしも心配して捜していたのです。」
2:49 すると、イエスは言われた。「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか。」
2:50 しかし、両親にはイエスの言葉の意味が分からなかった。
2:51 それから、イエスは一緒に下って行き、ナザレに帰り、両親に仕えてお暮らしになった。母はこれらのことをすべて心に納めていた。
2:52 イエスは知恵が増し、背丈も伸び、神と人とに愛された。



イエスの人生は30歳のいわゆる公生涯の前と後に分けられるが、前はクリスマスの時を除いてあまり記録がありません。それはある意味当然で、まだ普通の男性の一人にすぎないのだから致し方ない訳です。しかし、それでもインパクトのある事件もあったのでしょう。それが今日の箇所です。
年に一度のエルサレム詣出は一族郎党みんなで行く大事なお勤めでもあり楽しみだったのでしょう。だから子どもは子ども同士でワイワイガヤガヤと楽しくしているからイエスも子どもたちに混じって楽しんでいると思ったら、帰り道のテントを建てた時どこにも居ないことがわかって両親が青ざめた、という感じだったのでしょう。仲間の人に「ごめん、先に帰っていて、イエスがいないからもう一度エルサレムまで戻ってみる」と弟妹を他の親族に預けて「良い、きちんとみんなのいうこと聞いて帰るのよ」って不安そうな弟妹への後ろ髪をひかれるが如く、しかし野獣の多い道すがらどうかイエスが無事にいてとふたりはエルサレムに急いだことでしょう。

出会ったイエスは、神殿に居ました。安堵と共に沸き立つ怒り。「何やっているの!」と言う声に、「なんで?」と言うイエス。
イエスの生涯が終わり、ヨハネもマリアも当のイエスも天に召され、聖書と言う書物になった物を読んだ僕らだからイエスの「何で?」は理解できていても、当初書いた公生涯になる前のただの少年イエスの言葉としては理解できないし、ましては不安からの怒りを感じているマリアにはそれを要求するのは酷です。

清水牧師は今日のポイントは、51節母はこれらの事をすべて心に納めていたと言うところにあると言います。不安からの怒りの矛先のイエスの対応が理解できなかったとしても自分の腹に納めた態度。
もしかしたらイエスを身ごもった時に起こった天使からの祝福が甦ったのかもしれません。
この子は違う、というところを感じていたのかもしれません。だから納められたのかもしれないわけです。

私たちの当然(親の心配)と神の当然(イエスの回答)は違うでしょう。私たちは神の当然を理解できない部分が多分にあります。致し方ない事です。
だから、100%理解することを自らに課してはいけないのかもしれません。マリアのように、イエスの言っていること(したこと)は、自分には理解できないけれど、でも心に納めよう。と言う態度が正しい事なのかもしれません。マリアはイエスの誕生前に『主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。(ルカによる福音書1:45)』とエリザベトにあいさつをするわけです。
愚直にでも信ずること。これを貫いたのがマリアの人生かも知れません。
磔刑の死だって母親としてはあまりにも辛い事です。それでも神を信じ、神の示した道をすすんだ息子イエスを信じ、ただただ信じ祈った母親。
この清書の箇所は、イエスが神の子の片りんを見せた、と言う側面もありますが、今日の説教は母マリアの信仰心をお話し頂きました。

十字架にかかる直前、エルサレム入城は過ぎ越しの祭りの時でした。そして3日後に死人のうちより甦り天に昇る訳です。
41節、46節はまさにイエスの死と復活を髣髴させる書き方です。つまりは十字架の死と復活も人の目には理解しがたいが、それでも神には不可能なことはなくなされる。マリアのように自身が理解できなくても心に納めただ祈ることの大切さを暗示しているのかもしれません。

****

20181230-02

さて、年末でしたが今日は礼拝後まで残られる方がたくさんおられ、皆で昼食を共にできたことは感謝です。
  1. 2018/12/30(日) 17:53:28|
  2. Service
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うちなーからの便り 届く

20181229-01

先輩友人が琉球弧の島に渡った。終の棲家にするらしい。氏らしい行動力であり、氏らしい生死観。つまりはこの世はひと時の浮世、どこで生活するかよりはどう生活をするかに赴きをおいているのだろう。
そんな氏の生業は水彩画家。琉球の島より引っ越しの報告とともに富士山の絵が送られてきたのは、もしかしたらまだ小田原の暮らしに引きずられるものがあるからなのか・・・。

沖縄県と言う今の行政区で言えば、県庁所在地より隣国台湾の方が近い島。
ここ何年かで言えば自衛隊の基地問題、強いて言えばアジアの平和で揺れる島。

でも、青い海、そして豊かな自然。何よりも氏の言葉を借りれば「芸能の島」
これは行かずばなるまい。
世紀の変わる前後、共に産廃の処分場問題で闘った。そんな仲間と一緒にいってみたい。おいしい沖縄料理と酒を酌み交わし、カチャーシーを踊りたい。
なによりも豊かな大自然を写真に収めたい。

H○Sのツアー 滞在中Sクラスレンタカー付フリープラン3日間 43,800円の文字がインターネットの中踊っている。
社交辞令かも知れない『遊びにいらしてください』を素直に受けたい。時期はまだ未定だが、必ず遊びに伺います、よろしくです!!
  1. 2018/12/29(土) 22:04:04|
  2. Fellowship
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