LOGOS-喜びを分かち合い、悲しみをともにするために-

「カキゾエ黄門」漫遊記

本が届いた。
WebSiteで先生が綴られた物を紙媒体にするというのは、実はウォークのお供をさせてもらった最中の出来事を先生がコメントしてくださったので、校正の段階で確認が来たので一足先に知り得て、インターネット本屋で予約をしていたのだ。

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そしてFaceBook等でPRが出され装丁をみて金井真紀さんのおっとりとした優しい絵が、まさに垣添先生のお人柄を現していて来るのを余計に楽しみにしていた。
表紙はウォークの垣添先生。モンベルで統一したコーディネート。グリ-ンのウィンドブレーカーにオレンジのバックパック。色遣いもおしゃれだった。その“おしゃれさん”がそのまま表紙で微笑んでいる。

大雪の福岡を旅立ち神奈川に着いたのは3月も半ば。道中の先達などとんでもない、初めて降りたいずみ野駅から行ったことのない神奈川県立がんセンターへ向かった。
汗っかきな僕は歩き始めてすぐにクールメッシュ ラウンドネックシャツ1枚になった。そんな暖かい日だった。

神奈川東部は谷戸の町だ。等高線の入っていないGoogleMapの地図だけ持って行ったがその道は過酷を極めた(笑)
平坦な道を歩くことなく常にアップダウンが続いていた。
が、平行でない視線、つまりは見上げたり見下ろしたりする視線の先の街々はとても美しかった。
庭にある木々、公園の木々もそうかもしれない。草花や自然を愛でる時、その多くは平行でない視線と言う、非日常の美しさに見とれるからかもしれない。

富士山は多くの日本人が好きな山だが、それは独立峰の稜線の美しさだけではなく、どっしりとした雄大な山を見上げるからかもしれない。
春のスミレやタンポポ、秋のオミナエシやキキョウなど、視線を落としたところに可憐に咲くから愛おしいのかもしれない。

町もふっと路地の先が階段になって降りたところに違う段の家々が並んでいると、おもわずそんな路地の階段を下りて行きたくなる。この先の住宅街はどんななんだろう?そんな衝動に駆られるが、今日は先生のお供であり頼りない道案内なのだ。

それはこの横浜の街でも、また町田の丘陵でも、歩くことで何かが発見できる。そんなワクワクの旅ができる。
さすがに3500kmと言う途方もない距離の中ではそんなお気楽なことは言っていられないかもしれないけれど、ご本を読ませてもらって他の街の魅力もたくさん教えてもらった。
47都道府県、知らない町を歩くのも一興だな、とがん支援だけでないウォークの魅力も教えてくれる一冊だ。

ただ今全国の書店、インターネットで絶賛発売中。ぜひお買い求めてウォークの楽しさ、(出会った)人の優しさを知ってもらいたい。
  1. 2019/02/08(金) 21:48:21|
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ふるさと納税仲介会社に支払う税金

以前「ふるさと納税って儲かるの?」と題したコメントを書いた。
狂騒曲のようにどの自治体もがふるさと納税に取り組み、結局儲かっているのは取り扱う仲介会社だけじゃないかと思って書いたのだが、
泉佐野市で

100億円分に達した段階で終了する。市の特設サイト「さのちょく」からの3月31日までの申し込み分が対象。民間仲介サイトを経由した場合に、市が払う手数料分をギフト券に充てるという。

というニュース。
やはり仲介業者に手数料払っているんだろうとは思っていたけれど・・・。手数料分で100億? そんなに支払っているの??
日本の各自治体が仲介業者に支払う税金いくらになるんだろう?
  1. 2019/02/06(水) 10:48:38|
  2. _@あしがら
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虐待事件をとおして

小学4年生だった栗原心愛さんのDV(虐待)による殺害事件。5歳の子の「あしたはもっともっと できるようにするから もうおねがい ゆるして ゆるしてください おねがいします ほんとうにもう おなじことはしません ゆるして」の日記を読んで痛めた心のストレスが癒えないうちの事件にやりきれない気持ちでいっぱいです。
と同時にTVのニュースキャスターが、児童福祉事務所や学校の対応のまずさを糾弾しているのを見て、それも何か白けた思いがしてならないのです。
もちろん児童福祉事務所や学校の対応がまずかったと僕も思っているし、「秘密は守る」といった文字が反故されて親にばらされた時の心愛ちゃんのショックを考えたらあまりにもやりきれなくてしょうがないです。
一番大事な信頼とか愛といったものがないところに解決なんかあり得ないだろうと思います。
が、ニュースキャスターの「断固とした姿勢でなぜ取り組まなかったのか!」は、ではあなたのニュース番組も沖縄の問題やモリカケ問題を報じながら「断固とした気持ちで」取り上げているのか?というと決してそう見えないところに、目糞鼻糞を笑うのたとえを思い出し、それはそのまま自分への猛省となるわけです。
民民事件への介入は難しいと思います。短絡的な解決は行政に権限を与え、立ち入りや調査をしやすくすることですが、それはそれで権力の乱用が不要なプライバシーの開示、もっと言えば特高のような権限に昇華しそうな怖さを持ちます。
第三者に殺された場合は家族が代理で訴えられますが、親が我が子を殺した場合は一番の代理人が不在となり、得てして第三者の一般論としての怒りに任せた空気が事件の周りに漂います。感情に走りがちになる中、裁きだけではなく再発にどう改善をしていくのか?を本気で考えないと、同じような事件が再発します。
一つは教育だと思うし、一つは社会構造ではないでしょうか? 拝金主義、バブルの中で生まれ育った世代が親になり、プレゼントはあげるものではなくもらうものという発想であればとかくわがままな自己中心的な思想で、「子供」さえも字のごとく自分の「お供」として上から目線で見てしまう。と同時に怒られたことがないので本当の怒り方がわからない。

同時にもう一つ思うこと。僕らが思う以上に子どもは親が大好きだということ。だから殺されるような大変な思いをしていても、衰弱しながらも両親に許しを請うたのだろうし、今回も親と暮らしたいのは本心と語ったわけです。
子ども食堂という取り組みがあります。やりたいというベクトルには大いに賛同しますけれど、子どもは自分ちが貧しく親が困窮しているのを肌で感じている中、自分だけがおいしいものを食べる罪悪感を感じているのではないでしょうか?
困窮者に食事をとってもらうことでの子育て支援をするのならぜひ親子食堂にしてほしいものです。
おなかと心(他人との交流の輪)が満足するところに虐待は存在しないと思います。
親のストレスも考えたいです。
社会がギスギスして、匿名でののしる掲示板が横行し、疑心暗鬼とストレスが蔓延する世の中から脱皮して、大人が心落ち着ければこうした問題は減っていくのではないでしょうか?
虐待問題は平和の問題の一つだととらえると解決のヒントが見えてくるような気がします。
  1. 2019/02/06(水) 10:12:38|
  2. _ Peace
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信仰と希望と愛

2019年2月3日、松田聖契キリスト教会に与えられたみ言葉は、コリントの信徒への手紙Ⅰ 12章27-13章13節。表記のタイトルの説教を清水靖牧師より受けました。今回も礼拝で説教を聞いた内容を一信徒が思ったこと、話を咀嚼し想像したことを含めて綴ってみます。(なお、新改訳聖書を持ち合わせておりませんので、下記聖書箇所は新共同訳聖書に基づきます。また、公式のメッセージについてはこちらをご覧頂きたいと思います。)
なお、聖書は章節のナンバーも記載いたします。

12:27 あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。
12:28 神は、教会の中にいろいろな人をお立てになりました。第一に使徒、第二に預言者、第三に教師、次に奇跡を行う者、その次に病気をいやす賜物を持つ者、援助する者、管理する者、異言を語る者などです。
12:29 皆が使徒であろうか。皆が預言者であろうか。皆が教師であろうか。皆が奇跡を行う者であろうか。
12:30 皆が病気をいやす賜物を持っているだろうか。皆が異言を語るだろうか。皆がそれを解釈するだろうか。
12:31 あなたがたは、もっと大きな賜物を受けるよう熱心に努めなさい。

そこで、わたしはあなたがたに最高の道を教えます。
13:1 たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。
13:2 たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。
13:3 全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない。
13:4 愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。
13:5 礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。
13:6 不義を喜ばず、真実を喜ぶ。
13:7 すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。
13:8 愛は決して滅びない。預言は廃れ、異言はやみ、知識は廃れよう、
13:9 わたしたちの知識は一部分、預言も一部分だから。
13:10 完全なものが来たときには、部分的なものは廃れよう。
13:11 幼子だったとき、わたしは幼子のように話し、幼子のように思い、幼子のように考えていた。成人した今、幼子のことを棄てた。
13:12 わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。
13:13 それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。



今日の箇所は何の感想もいらないほど読めばわかる箇所です。
ひとりひとり個性のある人間として生まれ生きている、その集合体が社会と言う場所であって、その社会の中でどう生きるべきかを明解にパウロは語っています。

昔はじめてこの聖書の箇所を読んだとき違和感がありました。宗教書であるべく聖書が信仰よりも愛を優先して書くことなどあるのだろうか? と。しかし、教会に通い続けている今はまさに一番大事なのは信仰ではなく愛だと言いきれます。

『教会』と言う言葉に多くの方は、「礼拝堂」を思い浮かべるかもしれません。しかし、当然のことながら礼拝堂をもたない教会も存在します。
例えば2011年の東北の震災ではいくつもの教会が礼拝堂を失いました。が、教会は無くなってはいません。
日曜になれば跡地に信徒の方々が集まり、ともに賛美し、神様に祈りをささげます。
「礼拝堂」はモニュメントの一つであり、シンボルでありますが、なくても、そこに「愛」があれば『教会』は成立します。つまり教会とは形を持たない概念でいいはずなのです。しかし、それでは不安に陥る、それゆえに集まれるシンボリックな礼拝堂を建て続けてきたのでしょう。
愛とは何か? と言われれば、その答えは「マタイ22:34~」や「マルコ12:28~」や「ルカ10:25~」に書かれている箇所や、善きサマリア人の喩えなどにそのヒントが載っていると思います。
二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。(マタイ19:20)と書かれている通り礼拝堂ではなく、神を賛美する群れの中にイエスはいます。もっと言えば無償の愛をご自分の命すらも見ず知らずの人の罪のためにも惜しげもなく差し出したイエスのみあとを歩んでいくと言う群れの真ん中にイエスは立って導いてくれる、それがキリスト教会なのでしょう。
だから礼拝堂は無償の愛の発信地だと思います。13:13~の愛あればの箇所をかみしめて今週も歩みたいものです。

****

いよいよ松田教会は改修作業が始まりました。礼拝堂の床はコンパネの仮張りの上で壁の腰板は剥がされ断熱材がむき出しのまま、そして明日以降の資材が所狭しと置かれています。
が、僕以外の集まった人々も、神様がこの改修を御心として進められる喜びにみな笑顔です。

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そして昼食は、金曜日に松田町役場に婚姻届を出した直後に隣接の当教会に足を運ばれた若きお二人と食事を共にできました。これも感謝。

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  1. 2019/02/03(日) 23:23:30|
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永き旋律

人に会いに行くのなら『台湾』だけれど、夢を見に行くのなら『大陸』かもしれません。夢と言っても一獲千金の夢ではなく、悠久の歴史がまさに自分の足元で起こったのだと目を閉じその時代を思い起こしながら妄想する夢であります。
新婚旅行で30余年前桂林や昆明を旅したものの、その後の中国の米日の追従の発展を見聞きし少し幻滅をしていた中で、ちょうど1年前「空海」と言う映画を見に行きました。映画の内容は大好きな夢枕獏氏の原作と大きく外れ少し残念でしたが、湖北省・襄陽市に367,000ヘクタールの唐の都長安を6年かけて作ったセットはそれでけでも映画代を払える見事なもので、久々に中国と言う国に興味をもったのです。

そして、昨日友人から上海に引っ越すという連絡。上海のそばには「上に天国あり、下に蘇州・杭州あり。」と呼ばれた景勝地、水の都蘇州・杭州がありますが、そこから長江(揚子江)を800km上ったところに漢口(ハンカオ)があります。

さだまさしさんというシンガーソングライターがいます。思い起こしてみれば一番最初に好きになったのが「フレディもしくは三教街」だったかもしれません。
ナヨっとした女々しい詩を書く奴だ、と言う、それはそれで正当な評価もありますが、僕の中では、目をつぶって聞くと情景が本当にわかりやすく聞こえるという叙事詩的歌詞作家で、その最たるものは反戦詩でもあるこの曲です。

家族から聞いた話を詩にすることの多いさだまさし氏ですが、この曲も母親の若き頃の思い出話がもとになったと

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とさだまさしさんの母親は著書にそう記しております。
フレディ、あなたと出会ったのはハンカオ
揚子江沿いの外灘(バンド)であなたは人力車夫を止めた


さだまさしさんの母親が親類を頼って大陸に渡ったのは1942年。前年末12月に真珠湾攻撃をしかけたものの物資に乏しい日本は急速に形勢が逆転。そんな中見た大陸はまだまだ雄大な土地にのびのびとした雰囲気での生活を送っていた、とも書かれていました。
特にアヘン戦争や日清戦争を経て諸列国に国土と税収入を支配され、租界と呼ばれる中国の中の異国の町。それが、英国、、フランス、三教街(ロシア)、ドイツ、日本と自文化の建物を並べたエキゾチックな街並みは今想像しても素敵な場所だったと想像できます。

三教街のケーキ屋を覚えている?
ヘイゼルウッド(ケーキ屋の名前)のお爺さんの
何て深くて蒼い目
いつでもパイプをくゆらせて
アームチェアーで新聞を広げてた


歌には脚色があるでしょうけれど、空襲を気にすることなくまだ居れたのでしょう。
そんなゆったりとした時間が流れる大陸で、さだまさしさんの母親は、日本人租界からロシア人租界である三教街を抜けて英国租界の会社に通っていたそうです。そんな通り道のドイツ人租界でアパートメントの窓から見下ろしていたドイツ人の若者に淡い恋心を抱きますが、1944年空爆がドイツ人租界を襲い彼の居たアパートも含めすべてが無くなっていたそうです。

けれどもそんな夢のすべても
あなたさえも奪ったのは
燃え上がる紅い炎の中を
飛び交う戦闘機


そんなハンカオの街はもうすでに近代国家中華人民共和国の大都市。わずかに残っているのは古い建物をリニューアルさせたいくつかだけだそうです。
でもその中には、さだまさしさんの母親の勤めていたアンリハウス(現勝利飯店)はあるのだそうです。

そのあとは日本は悲惨な末路をたどります。子連れでは日本にとてもじゃないけれど帰れないよ、と言う言葉に親切な農村の方々が子どもを預かってあげよう。命があって落ち着いたらおいでなさい、と情をかけてくれた家庭に残された残留孤児。彼らが生みの親と対面するシーンが1970年代にTVでもよく報じられました。
国家は体制として規律を重んじるために情を捨てます。ですから中国と言う国が好かん国だと思う時もたびたびありますが、それでも素朴に情をかけてくれたたくさんの人の居る国でもあります。

友人の引越しで急に旅心と古い歌を思い出しました。
  1. 2019/01/28(月) 21:03:30|
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真実な人間性の回復

2019年1月27日、松田聖契キリスト教会に与えられたみ言葉は、旧約イザヤ書 61章1-6節。表記のタイトルの説教を清水靖牧師より受けました。今回も礼拝で説教を聞いた内容を一信徒が思ったこと、話を咀嚼し想像したことを含めて綴ってみます。(なお、新改訳聖書を持ち合わせておりませんので、下記聖書箇所は新共同訳聖書に基づきます。また、公式のメッセージについてはこちらをご覧頂きたいと思います。)
なお、聖書は章節のナンバーも記載いたします。

61:1 主はわたしに油を注ぎ/主なる神の霊がわたしをとらえた。わたしを遣わして/貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。打ち砕かれた心を包み/捕らわれ人には自由を/つながれている人には解放を告知させるために。
61:2 主が恵みをお与えになる年/わたしたちの神が報復される日を告知して/嘆いている人々を慰め
61:3 シオンのゆえに嘆いている人々に/灰に代えて冠をかぶらせ/嘆きに代えて喜びの香油を/暗い心に代えて賛美の衣をまとわせるために。彼らは主が輝きを現すために植えられた/正義の樫の木と呼ばれる。
61:4 彼らはとこしえの廃虚を建て直し/古い荒廃の跡を興す。廃虚の町々、代々の荒廃の跡を新しくする。
61:5 他国の人々が立ってあなたたちのために羊を飼い/異邦の人々があなたたちの畑を耕し/ぶどう畑の手入れをする。
61:6 あなたたちは主の祭司と呼ばれ/わたしたちの神に仕える者とされ/国々の富を享受し/彼らの栄光を自分のものとする。


松田教会では、前奏楽・賛美・主の祈り・交読・祈祷・賛美・聖書朗読・説教と礼拝は続きます。
説教の前の聖書朗読が上記の箇所ですが、その前の交読はルカによる福音書4章14―21節、下記の箇所です。

4:14 イエスは“霊”の力に満ちてガリラヤに帰られた。その評判が周りの地方一帯に広まった。
4:15 イエスは諸会堂で教え、皆から尊敬を受けられた。
4:16 イエスはお育ちになったナザレに来て、いつものとおり安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとしてお立ちになった。
4:17 預言者イザヤの巻物が渡され、お開きになると、次のように書いてある個所が目に留まった。
4:18 「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、/主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、/捕らわれている人に解放を、/目の見えない人に視力の回復を告げ、/圧迫されている人を自由にし、
4:19 主の恵みの年を告げるためである。」
4:20 イエスは巻物を巻き、係の者に返して席に座られた。会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれていた。
4:21 そこでイエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められた。


ちょうどイエスに渡された箇所が今日松田教会に与えられた御言葉の箇所のお話です。イザヤ書の後半はいつだれによって書かれたかは不明ですが、少なくともイエスが生まれる数百年前には書かれており、イエスの時代には書面として神殿に保管されていました。
それを慣例に従ってイエスが読み上げ席に座り、民衆はイエスの言葉を待った、と書かれているわけです。
イエスの行動は、まさに松田教会で言う司会者と説教者を一緒になされたようなものです。
僕らもこの日、司会者のT姉が読み上げた聖書の箇所を聞き、「説教、清水牧師より、真実な人間性の回復です」と言う言葉とともに牧師からのメッセージを聞き漏らさないようにと壇上に上がる牧師に注視しました。
2000年経った今も同じようにしたわけです。

その時イエスは「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と語られました。
この聖書の言葉と言うイザヤ書61章、ヨベルの年の話を今日はお聞きしたわけです。
ヨベルの年と言う言葉は聞きなれない言葉かもしれませんが・・・、
ヨベルの年とは、7年ごとに土地を休ませる安息年が7回巡った次の年、つまり第50年目の年を指します。
安息年が7回めぐり、49年目となると第7月の10日(つまり、贖罪の日)に角笛を鳴り響かせ、ヨベルの年の到来を告げます。ヨベルとは、「雄羊の角」(ヨシュア記6:4)という意味です。と物の本に記されていますが、この年が来ると全ての負債が帳消しにされます。
それは捕囚と言う屈辱と困窮、そして重税と貧困に苦しむユダヤの民にとっては喜びだったに違いありません。重荷だったものが消えてなくなるのですから・・・。
失業や悪質労働条件のもと得れる賃金では生活できない人がサラ金からお金を借りてにっちもさっちもいかなくなってあとは死を待つしかないのか…と言った時に、サラ金各社が返済を免除しようと言ったらそれは喜ぶでしょう。

しかし元々の意味はそうした負債は人と人との契約であり、神はあなたに何の負い目も与えていないんだよ、と言う意味です。「立って半畳、寝て一畳」裸一貫で生まれてきたのだから生後所有したものだって一時的に神から借りているもの、神に返しましょうという、神に立ち返れ、と言う原点回帰を忘れないようにするための社会ルールだったのだと思います。

しかし、借金が無くなったと喜んでも、きっと社会やその人を取り巻く環境が変わらなければまた借金をしなくてはならないでしょう。
貧しい人の上に福音が、と言っても、また元の生活になったのであれば元の木阿弥です。

イエスはなにゆえに「大丈夫だ」と語るのでしょう?
自分に見合った生活で満足する術を覚えればどうでしょうか?
隣の芝生は青い、と言う喩えがありますが、だからどうした?私は自分の家の芝生が大好き、なら気にならないわけです。
心の解放、神への帰依。インマヌエル、いつもあなたと一緒にいますと言う神の言葉だけを糧に今週も生きていきたいです。
そう、古くからの言葉に『襤褸を着てても心は錦』とあります。まず心が満足できることが大切だと思います。
心の満足とはなんなのでしょう?一番大事な1つだけで満足することです。

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会堂の中の礼拝堂以外の部分を近隣の方々の集会を兼ねたカフェにしてのリフォーム計画はいよいよ実工事直前まで迫ってまいりました。
M工務店の棟梁と契約書を交わし、工事が始まります。

写真は、松田駅からの来る道すがらの礼拝堂と今日のお昼、清水牧師お手製のカレーです。

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  1. 2019/01/27(日) 19:44:17|
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還暦前年(念)

どうやら7という数字は、この地球のサイクルにあった数字なのかもしれない。
1週間を7日とした、という話が含まれている創世記も紀元前1世紀の間に書かれたものと言われているし、初七日や七七日という仏教もその底辺にあるのは古代インド文明の7進法だ。
7進法とは何か? といえば、月の満ち欠け。28日周期を4分割にしたものだといわれている。
つまり、仏教の七七日(しじゅうくにち)の発想もユダヤ教の7×7+1で1つ越したペンテコステも同じ発想が起源なのだろう。もちろんそうした宗教をベースに日本では七福神などというものも貴ばれたりもする。

夢枕獏氏という郷土の作家がいる。氏の作品の中で「月に呼ばれて海より如来る」と「上弦の月を喰べる獅子」という2つの小説がある。特に好んで読んだ2作だ。テーマは「らせん」
なぜオーム貝は生き延びアンモナイトは滅んだか? それは、オーム貝のらせんはいい加減なのに対し、アンモナイトはきちんと月を刻んだからではないか?と夢枕氏は推測する。
月とシンクロするゆえに月を刻む。それは極めて居心地がいい。阿吽の呼吸でいられる。まさに母なる海、いや母なる宇宙の羊水の中にいられるようなものだ。
しかし、ご存知かもしれないが、地球と月の距離は徐々に離れていく。月齢は日々遅くなっていくのだ。つまりシンクロしていたものがなん百万年かかる間にシンクロしない不協和音になる。
いい加減なオウムガイはもともといい加減だから多少の不協和音にはものともしないが、アンモナイトはその律義さにより不協和音を受け入れられなかった。いや、羊水の中という恩恵から出ざるを得ない転機を受け入れなければならなかったが、受け入れができなかった。

僕も49年という月齢から生み出された七進法の7倍の時からはや10年。59歳を迎えた。
プラス10年と言う月日は、月齢と螺旋の関係でいえばシンクロしなくなってくる頃なのか・・・僕は変化を受け入れられたのか?
そもそも社会の変化とは何か?
世界中が急速に世知辛くなった。他人に対してだ。生活保護費でパチンコに行ったからけしからん、とか、小さな無人島の所有権はわが国だ、とか。テロが日常茶飯事に起きた。平和と言われた日本でも無差別殺人のニュースが多く取り上げられている。それだけ誰もが疲弊しているからだろう。
月が徐々に地球から離れていくように、社会も徐々に資本主義社会の終焉に向かっている。お金を中心に物事を考えなければならないことで困窮しているのだ。会社ではノルマが与えられ競争を強いられる。
経済で測るから保護費でパチンコをすることも、無人島の所有もけしからんとなる。もうこの世の中なんかなくなっちまえと自暴自棄になる。
僕はパチンコが有益な時間の使い方には見えず退屈な時間つぶしに見える。だからこそ時間でいえばかわいそうであってもけしからなくはない。無人島の経済的(ここにも資本主義的な思想が…)排他水域内に有益な金属が埋まっていようが僕の所有物じゃないし、三菱電機が伸びるかサムソンが伸びるかファーウェイが伸びるかの違いで僕の生活にはかかわりがない。
そんなことに目くじら立てるくらいなら僕の生活に密着したことにかかわりたい。
僕はオウムガイのように柔軟にこの社会変化を受け入れ、新しい価値観の中で生きられているのか?それともアンモナイトのように資本主義と高度成長の残像を忘れられずに滅ぶのか?
キリスト教的に言えば、原罪と言うエゴの罪からイエスが解放してくれた洗礼を儀式ではなく、実体験として受け入れられるかだ。

さて、インド文明の7進法とは違う12進法。時計を中心とした時間はここから来ているがこれは古代中国殷の時代の文化。干支の起源。そんな干支からの発想還暦はいよいよ来年だ。
イニシャライズ(初期化)の年。さて、変化の集大成をこの一年で感じられるか?
時は右傾化した思想の蔓延の中改憲が進められている。改憲は過去への回帰。決して未来ではない。
もう少し精神的に穏やかな安らぎのある社会になってほしいな。隣国に恐々としないで笑顔で握手できる環境なってほしいな。
それは祈りでもあるし、自分がそういう行動を起こせるようにという誕生日の思い。

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さて、そんな誕生日にCANONさんから素敵な誕生日プレゼント。
皮のカメラストラップ。ちょっとうれしい。やっぱり僕は現金な業に生きる人間なのかもしれない。
まぁ四角四面に生きるのも大事だが過ぎたるは及ばざるがごとし、ともいう。自分も隣人も笑顔で生きる一年になれたらいいものだ。
  1. 2019/01/23(水) 00:02:01|
  2. NonGenre
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カナの婚礼

2019年1月20日、松田聖契キリスト教会に与えられたみ言葉は、ヨハネによる福音書 2章1-11節。表記のタイトルの説教を清水靖牧師より受けました。今回も礼拝で説教を聞いた内容を一信徒が思ったこと、話を咀嚼し想像したことを含めて綴ってみます。(なお、新改訳聖書を持ち合わせておりませんので、下記聖書箇所は新共同訳聖書に基づきます。また、公式のメッセージについてはこちらをご覧頂きたいと思います。)
なお、聖書は章節のナンバーも記載いたします。

2:1 三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があって、イエスの母がそこにいた。
2:2 イエスも、その弟子たちも婚礼に招かれた。
2:3 ぶどう酒が足りなくなったので、母がイエスに、「ぶどう酒がなくなりました」と言った。
2:4 イエスは母に言われた。「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。」
2:5 しかし、母は召し使いたちに、「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」と言った。
2:6 そこには、ユダヤ人が清めに用いる石の水がめが六つ置いてあった。いずれも二ないし三メトレテス入りのものである。
2:7 イエスが、「水がめに水をいっぱい入れなさい」と言われると、召し使いたちは、かめの縁まで水を満たした。
2:8 イエスは、「さあ、それをくんで宴会の世話役のところへ持って行きなさい」と言われた。召し使いたちは運んで行った。
2:9 世話役はぶどう酒に変わった水の味見をした。このぶどう酒がどこから来たのか、水をくんだ召し使いたちは知っていたが、世話役は知らなかったので、花婿を呼んで、
2:10 言った。「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、酔いがまわったころに劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました。」
2:11 イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた。


有名なカナの結婚式の場面。イエスが初めて奇跡をおこなった場所。
清水牧師はこの箇所の存在意義について考えるところから今日の説教を始められました。
福音書に記されているイエスの歩みの多くは、事の善悪を説く場合が多いです。時には律法について宗教者たちと闘うこともあったり、癒しを与えたり、結果ジャッジを得られることが多くあります。
しかしこのカナの結婚式では、表面面だけ見れば、言い争う相手もいなければ、ジャッジングを問う場面もありません。
意見の食い違いはなく、ただ、お祝いの場面で、皆がハッピーになれました、と言うお話です。今日は礼拝の中で「祈り」の当番でしたので、今日の聖書の御言葉を通じての祈りをしましたが、初めての奇跡が難しい話ではなくただ皆の幸せな笑顔になる奇跡だったことに僕は感銘すら覚えた、できればこの1週間も自分も隣人も笑顔で居れるように、イエスの奇跡のように笑顔を生みだせるように、と祈ったのですが、イエスの奇跡はそうした社会になることだったのではないかと思います。

しかし不思議な箇所です。誰かの結婚式に招かれた話であれば、新郎や新婦の名前、またイエスや母マリアとの関係などから書き始めるでしょうけれど、一切そこには及言していません。どれだけの関係者なのかも読者に伝えないまま書かれた結婚式とイエスの初めての奇跡。
福音書の著者が書かなかったのは、初めての奇跡を見ての驚きが余りにも大きかったからかもしれません。それに比べれば、誰の結婚式であろうがイエスとの関係がどうであろうが、もうそんなこと全てよくなったのではないでしょうか?

もちろん細かい内容にも踏み込まれました。
6節にはユダヤ人が清めに用いると言う文言があります。現在の社会においてでも、清めること、穢れることは、差別を助長するものでもありますが、ユダヤの世もそうでした。イエスはこのあと公生涯を送る時、穢れをもっていると言われた羊飼いや取税人、医者や血の病を患っている人など差別なく接していたので、宗教的指導者からは疎まれた存在でした。
たぶんこのかめは聖別をするための道具であったのでしょう。特別な人のみ触ることが許された水を結婚式に参列した誰もが喜びと祝いの笑顔の道具に変えたのです。
ここにキリスト教が「愛の宗教」と言われる所以が発生しました。

そして母マリアはいいます。この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください
この言葉に神の言葉に従順でいる大切さが語られています。

また、「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、酔いがまわったころに劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました。と言う言葉にごまかしのない真実の人であることが語られています。

当初今日の箇所はお祝いの席に集った皆が幸せになっただけ、と語りましたが、よく考えれば、僕らはこの世に生きとし生けるものすべてが幸福になることこそが、至上の喜びではないでしょうか。
愛と神の導きと真実の生き方、これこそが一番大事なこととイエスは最初の奇跡の中で身をもってそっと教えてくれたのだと思います。

20190120-01

20190120-02

さて、今日は午後から炊き出しの準備があり、急いで日本キリスト教団小田原教会に行かなければいけなかったので昼食は残念ながら食べられませんでした。
しかし、清水牧師渾身の大作、リノベーションをした新会堂の3D模型が飾ってあったのでそれをぱちり。
イースターはこの会堂でお祝いできたらいいな。
  1. 2019/01/20(日) 18:24:47|
  2. Service
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舟原日向の石造物調査

昨秋からご無沙汰になってしまっている石造物調境。定例会も冬のお休み時期なので、自主調査だけでもと、Fさん、Iさんと我が家2人の4人で、北舟のTさん敷地内と熊野神社を調査。

Tさん宅は敷地内なので事前に調査依頼済。家のちょうど裏からがけを登り小道を進みます。裏山が崩れるといけないとコツコツご家族でコンクリートを吹き付け土止めをなされているとのこと。

20190119-01

確かに山が崩れつつある中の石造物ですので半分埋まっていているものが多かったです。文字のバランスからみて板碑の下半分と座台の石がまるまる埋まっていると思われます。
写真の板碑のほかにも天衣を羽織った馬頭観音、弓、矢、宝輪、未敷蓮華をもっているから愛染明王(?)6手合掌の青面金剛 の船型庚申塔、寒念仏供養塔など9点もががけの下を向いています。年号が刻まれている物を見れば、多くが江戸中後期のもの。
高台になぜ? 通行できないところになぜ? と場所がとても不思議です。
敷地所有者のTさん曰く、ここには水路があって村の人たちが水を汲みに来た時にお参りされたのでは、といわれます。寒念仏と言う村の方々の苦行の記念なら水汲みと言う公的な場所でもわからなくはないですが、それでも目線が合う場所につくらなかったのか?という疑問は消えません。

しかし、石造物と言う歴史的文化財が山の崩落で半分埋まっていることに対して公的な費用で保護はできないものでしょうか?

写真は僕らが通常行っている作業である小麦粉をたんぽで凹に入れ文字を見る最中の状態。このあと水で洗い落して現況回復をします。
お礼を言い、熊野神社に向かいます。

こちらにもまったく詳細不明の石造物が半分地中に埋まっていました。

20190119-02

後からコンクリで下の座石に固定したようですがなんなのでしょうか?神社の総代さんは自治会長が兼任と言うことで、現在の自治会長さんはお若い方なので、地の古老の方にお聞きすればわかるでしょうか?

歴史ある久野のこと、まだまだ知らないことが沢山です。
  1. 2019/01/19(土) 23:10:03|
  2. _StoneMonument
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イエスの洗礼

2019年1月13日、松田聖契キリスト教会に与えられたみ言葉は、ルカによる福音書 3章15-17節並びに3章21-22節。表記のタイトルの説教を清水靖牧師より受けました。今回も礼拝で説教を聞いた内容を一信徒が思ったこと、話を咀嚼し想像したことを含めて綴ってみます。(なお、新改訳聖書を持ち合わせておりませんので、下記聖書箇所は新共同訳聖書に基づきます。また、公式のメッセージについてはこちらをご覧頂きたいと思います。)
なお、聖書は章節のナンバーも記載いたします。

3:15 民衆はメシアを待ち望んでいて、ヨハネについて、もしかしたら彼がメシアではないかと、皆心の中で考えていた。
3:16 そこで、ヨハネは皆に向かって言った。「わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。
3:17 そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。」

3:21 民衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受けて祈っておられると、天が開け、
3:22 聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た。すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。



AKB(と言うアイドルグループ)が一世を風靡し始めたころから『神』と言う言葉を本来の神以外にも使う若者用語として流行っています。
大勢が舞台に上がる彼女らが舞台上の真ん中で歌うためには「選挙」と言うシステムでたくさん投票を受けなければならず、そんなところからセンターで歌える彼女らを『神』と呼ぶようになったわけです。そこから発生して特別な能力、人に秀でた能力を持つ人、人を驚かせる大事件の主犯などの事を『神』と呼ぶ言い方がはやっています。

さて、今日の聖書の箇所は、困窮のユダヤの民が虐げられた毎日の中でいつかは神の御許から救い主がこの世にやってきて自分たちを救ってくれると何千年も信じている最中のお話。
何千年も、と言うのは、もう伝説化になっているほどの長い時間ですが、彼らは頑なに「いつかは」を信じていたわけです。
「どんなお方なのだろう?」その風貌も、「どこに現れるのだろうか?」その場所すらわからないですが、いつかと言う希望だけは持っていたわけです。
そんな時にヨハネと言う若者がそのメシアだという噂が立ち、彼から救いのためのバブテスマを受けようと長蛇の列ができた、と言うのが今日の聖書の箇所。

その列にイエスも並ばれるのです。本物のメシアが・・・・、民衆からメシアと言われたものの「イエスの履物のひもを解く値打もない」、とヨハネが言っているそのイエスが!!、です。
そもそもバブテスマとは罪ある人が、悔い改め神に従って生きるための儀式です。ですから神の御許から来て罪を犯していないイエスは受ける必要もないのです。

ですから、共観福音書マタイによれば
3:13 そのとき、イエスが、ガリラヤからヨルダン川のヨハネのところへ来られた。彼から洗礼を受けるためである。
3:14 ところが、ヨハネは、それを思いとどまらせようとして言った。「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか。」
3:15 しかし、イエスはお答えになった。「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」そこで、ヨハネはイエスの言われるとおりにした。


と、ヨハネはイエスの洗礼を一度は否定するものの、イエスの願いで洗礼を授ける訳です。
しかも普通の人と同じように列に並んでです。
これはどういう意味なんでしょうか?
清水牧師は大阪釜ヶ崎の本田哲郎神父の著書から話を進めます。
小田原や寿でもやっている越冬炊き出し。そこでは調理した食事を配食する時に長い列ができます。
多くの野宿者は、例えば飲み終わったアルミ缶を集めて日銭をため1日1食の弁当を食べたりしていますが、それはアルミ缶を業者に持って行き、換金してもらってこそお金になる訳です。アルミ缶では食べられません。
しかし、そうした業者も年末年始は休みを取ります。必然、彼らは換金の手段を失い、約1週間食事がとれなくなります。
寒い冬満足に食べられなければ「死」を迎えます、それを防止するのが越冬炊き出しなんです。まさに「越冬」の闘いなんです。そんな炊き出しの行列の後ろを指さし、「見てみぃ、イエスはんが一番後ろに並んでおられる」

イエスはなぜバブテスマを受けるのか? は、みなと同じ目線での行動であるのです。ですから神の御子とはいえ、偉そうに横から割り込んだり、誰の目にもイエスとわかるような服を着て、ではないのです。
普通に普通に列に並び、同じように時間を使って自分の番を待つのです。

AKBに端を発した『神』とは、2年連続得票がトップであるとか、YouTubeの動画で誰もが驚くようなすばらしい技を見せたりとかする人をリスペクトして言う言葉です。
しかし、キリスト教の神は、神であることを隠すように僕らと同じ目線で僕らと同じ困窮をして、僕らと同じ生活をする人です。
そこにはじめて「隣人を自分と同じように愛しなさい」と言う重みのある言葉が生きてくると思うのです。
特に目立つ人ではない中にこそ、僕らが必要としている隣人はいるのです。
炊き出しのごはんが自分の前の人で終わってしまうかもしれない不安、お腹が空いて倒れそうな自分の横でふぅーふぅーと熱いものを冷ましながらおいしそうに食べている「このやろうめ、な奴」。そんな時も静かに耐えて待つ人故に神としての信頼をおきます。
もしかしたらそれは、ロシアの文豪トルストイの名作「靴屋のマルチン」のように神が姿を変えて僕らの前に現れているのかも知れません。あたなは私のようにつらい体験をして優しくなれるのですよ、と。

若かりし頃は、僕も「足が上がらないでつまずく」ことも「暴飲暴食しても胃もたれがする」こともありませんでした。だから、高齢の人がそんなことを言っても心から同意し、本心で気の毒に思うことはありませんでしたが、今は違います。自分が体験すれば、心の底からアーメン(その通り)と言えます。
イエスのした出来事はこうした実体験だったのでしょう。だから僕は神にすべてを委ねられるのです。

****

20190113-02


今日は、世は成人式やどんど焼き(左義長)のお祭り。礼拝後はみなさんすぐに帰られる方も多く、少数精鋭の『きょうかいニュース』作成でした。
教会を改修してカフェ[にこっと]を併設し、日曜以外も有益に使ってもらうために楽しい会議が進んでいます。

20190113-01
  1. 2019/01/13(日) 17:17:35|
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